シーア派②

(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)

シーア派は、「預言者ムハンマドの従兄弟でありムハンマドの娘ファーティマの婿でもあったアリーの血を引く者が、カリフの後継者であるべきだ」とする。

そして、「アリーの血を引かないウマイヤ朝は打倒されるべきだ」とした。

従ってシーア派は、ウマイヤ朝の打倒に決起したアッバース家への協力を惜しまなかった。

アッバース家は、ムハンマドの血縁でもあった。

しかし、アッバース家がウマイヤ朝を倒して『アッバース朝』をたてると、シーア派は冷遇された。

そこでシーア派は、反体制派の態度を貫くことになった。

アッバース朝の10代目カリフのアル・ムタワッキルは、850年にシーア派の大迫害をし、アリーの墓やフセイン(アリーの子)の墓を破壊した。

この迫害を避けるために、シーア派は「仮託(タキーヤ)の原理」を唱え出した。

この原理は、「迫害された時には、偽装的な棄信を認める」というもの。

シーア派はタキーヤにことよせて、表面上はアッバース朝のカリフを崇めつつ、アリーの後裔たるイマームに忠誠を捧げ続けた。

シーア派は、その後ペルシャに定着して、日の目をみる事になる。

ペルシャ人は、アラブの主流であるスンニ派と対抗するために、シーア派となったと見られる。

(アラブはセム系人だが、ペルシャはアーリア系人)

1502年に確立された『サファヴィー朝ペルシャ』は、「7代目イマームのムーサ・アル・カージムの後裔だ」と称し、シーア派を国教として定めた。

この時以来、国王(シャー)は、神隠しにあった12代目イマームのムハンマドが救世主として再来するまでの「代理人」とされるようになった。

(第12代イマームのムハンマド・アル・ムンタザルは、シーア派の中では「878年にこの世から姿を消したが、最後の審判の日の直前に、救世主として姿を現す」とされている )

イスラム教は、シーア派という形でイラン(ペルシャ)に、ようやく根付くことになった。

ペルシャには古来からのゾロアスター教の伝統的な価値観があり、シーア派神学はその価値観を色濃く伝えている。

これは、ドイツに入ったキリスト教が、土俗宗教と交ざって、マリア信仰を強く押し出す形になっている事と共通している。

(2013年4月6日に作成)


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