(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
ムハンマドは、自分の受けた啓示に従った宗教を、『イスラーム(神への絶対的な服従)』と名付けた。
そして信者たちを、『ムスリム(神に絶対的に服従する者)』、または『ムーミン(信徒)』と呼ぶようになった。
ムハンマドはメディーナに移住した後、そこで信徒たちによる共同体を築いた。
このイスラムに忠実な共同体のことを、『イスラム共同体(ウンマ)』と呼ぶ。
ウンマは、イスラム国家を築いていった。
ウンマの統治者をカリフ(神の使徒ムハンマドの代理人)とする体制を、『カリフ制』という。
カリフ制は、ムハンマドの没後から3世紀は、十分に機能した。
カリフは、共同体の代表であり、イスラム法の解釈者であり、統治者であった。
しかし、カリフの実権は9世紀から衰え始めた。
各地に地方政権が次々と誕生し、カリフは名目的なウンマの象徴になっていった。
そして、実権を持つ者には「スルタン」の称号が与えられ、カリフは統治権を承認する代わりに保護される事になった。
この時代は、カリフ制とスルタン制の並行した時代である。
13世紀の半ばになると、モンゴル軍が侵攻してきてバグダードが灰燼と化し、アッバース朝(イスラム王朝)は滅んだ。
この時に、カリフ制は完全に消滅した。
カリフ制が消滅した後のイスラム統治体制は、『スルタン制』と呼ばれている。
『スルタン制』は、単にスルタンをトップとする体制ではない。
実権者の称号は、アミール、シャー(王)、マリク(王)など色々だが、次のような政治的特性を持つ場合をいう。
「もはやカリフのようにウンマの統一を象徴せず、ウンマの一体性はシャリーア(法律)の施行で表現される」
スルタン制の下でのイスラム法学者は、「権力者がシャリーアによって統治を行い、領土が防衛され社会が維持されていれば、その統治の正当性を認める」としていた。
この理論は、マムルーク朝やオスマン・トルコ朝の支配を正当化した。
オスマン・トルコ朝の末期には、スルタンがカリフを兼任した。
これを、『スルタン・カリフ制』という。
1922年にスルタン制は廃止され、23年にトルコ共和国が誕生すると、24年にはカリフ制も廃止された。
(第1次大戦でオスマン・トルコは敗戦し、解体・滅亡した。
その後にスルタン・カリフ制も廃止されたのである)
これ以後、イスラーム世界では統一的な指導者を持たなくなった。