タイトル十字軍とは、各十字軍の大略

(以下は『ウィキペディア』からの抜粋
2011年8月17日にノートにとり勉強
2026年9月2日に作成)

🔵十字軍とは

主にキリスト教カトリック派の諸国が、聖地エルサレムを奪還する目的で派遣した遠征軍のことである。

十字軍には、キリスト教の異端とされる派に対する遠征軍も含まれる。

中東にあるキリスト教の正教会・東方教会も、カトリック派(ローマ教会)敵とされ攻撃対象になった。

十字軍の派遣回数は解釈によって違ってくる。

🔵第1回・十字軍 (1096~99年)

十字軍が生まれたのは、トルコ人のイスラム王朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国が、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したのが発端である。

この時、東ローマ帝国は傭兵の提供を求めた。

同年にウルバヌス2世は、エルサレムの奪還を呼びかけ、参加者には免罪が与えられると宣言した。

この呼びかけに応えた西ヨーロッパの騎士たちは、東に向けて遠征し、イスラムの都市を攻略して虐殺・陵辱・略奪をしながらエルサレムを目指した。

攻められたイスラム側は一致団結せず、十字軍は1099年にエルサレムを征服した。

エルサレムを占領した後、いくつかの十字軍による国家が作られた。

1101年にも、この十字軍は大規模な遠征を行ったが、小アジアでほぼ壊滅した。

🔵第2回・十字軍 (1147~48年)

イスラム側は、エデッサ伯国を占領し、勢力を盛り返した。

そこでローマ教皇エウゲニウス3世は、新たな十字軍の結成を呼びかけた。

この時、名説教家のベルナルドゥスが各地で十字軍に入るよう勧誘を行った。

この十字軍は、フランス王ルイ7世とローマ皇帝コンラート3世の2人を総大将にして出発した。

しかし小アジアで敗北し、パレスチナについた残軍もダマスカス攻撃に失敗し、撤退した。

🔵第3回・十字軍 (1189~92年)

1187年にアイユーブ朝(イスラム教の国)の始祖であるサラディンは、ジハード(聖戦)を宣言してエルサレムを攻撃し、90年ぶりにイスラム側がエルサレムを奪還した。

これを受けてローマ教皇グレゴリウス8世の呼びかけで、英国王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加して、再び十字軍が行われた。

1190年にフリードリヒ1世は川で溺死した。

1191年にアッコンを奪還した。

1192年にリチャード1世は、サラディンと休戦協定を結んだ。

🔵第4回・十字軍 (1202~04年)

ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけで、当時のイスラム教の本拠地となっていたエジプト攻略を目指した。

(※中東ではなくエジプトに本拠地があったのは意外である)

この十字軍は、輸送費(戦費)を稼ぐためハンガリーのザラを攻めた。
カトリック国を攻めたためローマ教皇から破門された。

十字軍は東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノポリスを征服した。
そして虐殺・掠奪を行い、フランドル伯が皇帝に就いた。

ローマ教皇はこの征服を認めて、さらにエルサレムを目指すよう命じたが、実施されなかった。

🔵第5回・十字軍 (1218~21年)

アッコン王国のブリエンヌらは、エジプト攻略をするも失敗した。

この十字軍は、アジアから謎のキリスト教国「プレスター・ジョン」が現れるとの情報を きいて挙兵したという。

この噂は、実際はモンゴル帝国の来襲だった。

🔵第6回・十字軍 (1228~29年)

ローマ教皇グレゴリウス9世はフリードリヒ2世に遠征を命じたが、実行しないので破門した。

1228年にフリードリヒ2世は独自に遠征し、巧みな外交でイスラム側と条約を結んで、エルサレムの統治権を手に入れ、エルサレムの王となった。

グレゴリウス9世は、フリードリヒ2世に対して十字軍を派遣するも、撃退された。

そのためグレゴリウス9世は1230年に、フリードリヒ2世の破門を解いた。

1239年に条約は失効し、イスラム側はエルサレムを再占領した。

🔵第7回・十字軍 (1248~49年)

1248年にフランス王のルイ9世が、十字軍を行うも敗北した。

彼は捕虜となり、莫大な賠償金を支払って釈放された。

🔵第8回・十字軍 (1270~72年)

1270年にルイ9世は再出兵し、アフリカ大陸のチュニスを目指すも途中で死去した。

英国の王太子エドワードと、ルイ9世の弟シャルルはアッコンに向かったが、撤退した。

かつての十字軍がつくったキリスト教の国家は、1291年に全滅した。
この年に最後の拠点だったアッコンを失った。


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