(『日本の聖と賎 中世篇』野間宏と沖浦和光(かずてる)の対談本から抜粋)
野間宏
1960年代の後半から、被差別部落史の研究がめざましく進んできました。
日本各地で、これまでの考え方を改める史料が出てきています。
沖浦和光
最近は、日本の文化や芸能の歴史は、賎民制度や部落問題なしに深奥を掘り起こせないとはっきりしてきました。
野間
まさに画期的で、戦前の日本では考えられないことです。
沖浦
これまでの教育では、日本史や日本文化史は天皇や朝廷を中心にして、権力を含めて支配者の側から叙述されてきました。
だから文化の深部を担ってきた被差別民たちの仕事や生活は持殺されてきました。
昭和前期に育った私の世代は、学校で部落問題を教わったことがない。
中世文化を代表する世阿弥を教わっても、彼が賤視されていた散楽戸(さんがくこ)の系譜をひく出自と触れられなかった。
歌舞伎や人形浄瑠璃でも、彼らの河原者の意識に突っ込まなかった。
野間
学校教育では、それらはタブーになっていたんです。
沖浦
これは最前の左翼も同じで、同情して支援することはあっても、被差別民の立場にたってものを考えることはなかった。
日本史にある「浄(じょう)」と「穢(え、けがれ)」、あるいは「貴」と「賤」の対立構造について、完全な認識不足でしたね。
マルクス主義者は、何もかも経済的な階級関係に押しこんで判断する姿勢が強かった。
野間
1970年代に入って、 柳田国男(やなぎたくにお)や折口信夫(おりくちしのぶ)の民俗学が注目されたのは、日本民衆史の見直しがあったからです。
それまで民衆史をリードしてきたマルクス主義の「講座派」のそれはひどいものだった。
天皇家と被差別部落を身分制の対極として把握する視点も、講座派には欠けてましたね。
沖浦
私も含めて、いずれも西ヨーロッパの近代社会に発想の拠点を置く思考になってました。
これまでの歴史学では読解(どっかい)不能な、秩序からはみ出した者たちは、無意味な価値なき者として切り捨てられてきました。
権力者から負の者と烙印を押された者は、歴史の闇に埋められきました。
そうした歴史学に無視された民衆の生きざまを集めたのが、民俗学でした。
歴史学者から二次的な傍流とされた民俗学が、読まれ始めてます。
野間
これまでの通説では、今日の部落の起源は江戸時代の初期とされてきました。
はたしてそれで合っているのか。
沖浦
今日の被差別部落は、江戸時代初期の身分制度の編成で、「土農工商」よりも下の身分として定まったのが原点、とされてきました。
しかし古代からあった賤民制と、どのような関係にあるのか。
賤民たちは、非人(ひにん)、清目(きよめ)、河原者(かわらもの)、穢多(えた)、犬神人(いぬじにん)、声間師(しょうもんじ)、散所法師(さんじょほうし)、乞食(こつじき)などと呼ばれ、寺社権門に隷属して労働に従事してました。
朝廷の律令制で、良民(公民)が決まり、それと区別される賤民という形で、身分差別が固定した。
身分差別の制度は、古代の律令体制にさかのぼるのです。
野間
古代の仏教や神道がふりまいた「浄と穢」の価値も、差別につながりました。
沖浦
重要なのは、古代文化の早く栄えた所ほど、今日でも被差別部落が残っている事です。
畿内がそうで、部落人口の比率が最も高いのは、朝廷があった大和(奈良県)の8%です。
これは偶然ではありません。
野間
日本仏教史でいうと、親鸞は最も鋭く国家=朝廷と対立した者で、本当の仏教に通じた人であり、律令制と闘った人でした。
親鸞が賤民問題を見ていて、差別されている人々の中に入って布教した事は、彼の書いた『唯信鈔文意』(ゆいしんしょうぶんい)で明らかです。
日蓮もそのタイプで、自分は殺生戒を犯す漁師の生まれだと、あえて言っています。
沖浦
考えてみると「身分制」は、支配者・権力者が自分たちの権威と血統を持続するために作った構造で、全く人為的なものです。
1960年代の後半から、中世の散所民、坂の者、宿の者といわれた下層民や、河原者の実態が史料で掘り起されています。
各地方の古い部落を調査すると、そこから部落が分かれて、新しい部落ができています。
江戸時代につくられた部落は、もっと前からあった部落から分かれたものが圧倒的に多い。
だから江戸時代の賤民制は、律令制いらいの賤民制の仕上げでした。
野間
その通りです。
それで中国の律令制をモデルとした、日本の律令制における「貴・良・賤」の身分差別は、『アジアの聖と賤』で論じました。
水平社の委員長だった松本治一郎(じいちろう)は、「貴族あれば、賤族あり」とズバリと言ってます。
天皇制があるかぎり、その対極として賤民制も存在し続けます。
日本の身分制では、天皇が聖なるものとして頂点に置かれます。
だから「士・農・工・商・穢多・非人」という図式は、間違っています。
天皇を入れておらず、身分差別における天皇制の原罪を無視しているのですから。
沖浦
法制としての律令は、形式的には明治維新まで存続していました。
法令の律は機能をかなり失ってましたが、身分制・官職制を中心とした令は明治維新まで生きていました。
賤民解放令は、明治4年に太政官布告として出ています。
野間
江戸時代も、形骸化していたとはいえ、律令が国の基本法でした。
沖浦
江戸時代の法律は3本立てで、天皇は政治権力は奪われていたが、律令の法制的には君主だった。
天皇の宗教的な権威は持続していて、その権威を武士階級は民衆支配に利用しました。
第2の法律は幕府法で、元は三河の法の延長で成立し、公家・武家・町人などに様々な規制をかけました。
第3の法律は各藩の法律で、戦国時代の延長として成立しました。
賤民の呼び方やその処遇は、各藩によってかなり違う。
各藩の法は、成文法というよりも、慣習法を主としていました。
野間
徳川幕府が賤民の呼称を、穢多・非人という形で統一したのはいつ頃ですか。
沖浦
元禄時代あたりから、幕府の賤民対策は強まってきます。
この頃、町人階級の勢力拡大がありつつ、賤民の人口が増えてきていた。
また賤民層である芸能人たちが、都会で活躍しだして、武士層にまで影響力を持ってきたのも関連してました。
それで8代将軍の徳川吉宗が法律好きで、中国・朝鮮・日本の律令を調べ直して、これまでの慣習法を成文法にしようとした。
野間
それで穢多頭の弾左衛門に対して、担ってきた職業を由緒書(ゆいしょがき)として提出させたのですね。
沖浦
そうです。
享保4年(1719年)と同10年に、浅草に住む関東の穢多頭の弾左衛門に、賤民の仕事を書き出させて提出させた。
それをきっかけに、幕府は賤民の統制に乗り出しました。
日本で身分制が実行されたのは、7世紀の末です。
大和政権が691年に、良民・賤民の規定をし、奴婢の制度を定めました。
大ざっぱに言うと、それから明治維新まで、身分制という差別構造は一貫しました。
これまでの解釈は、武士が勃興して鎌倉幕府ができると共に、律令体制は完全に解体した、でした。
しかし天皇を頂点に置く身分制は、武士の時代も変わらなかったのです。
野間
武家政権は、身分制には手を出さなかったわけですね。
沖浦
戦国時代の下剋上で、朝廷を中心にする官職制(身分制=差別制度)は危機に陥りました。
しかし、織田信長・豊臣秀吉の時代に、一向一揆という民の反乱に苦しめられた武家政権は、天皇の権威を利用して事を収めようとしました。
結局のところ武家権力は、天皇の宗教的な権威には手を触れず、むしろその権威を民衆支配に利用したわけです。
豊臣秀吉は、皇居の造営や伊勢神宮の改築をやり、忠臣ぶりを世間にアピールしました。
朝鮮侵略に乗り出す時は、八幡大菩薩と神功(じんぐう)皇后に祈って、すがっています。
徳川家康も、死んでから東照大権現になりましたが、これだって後水尾天皇の詔勅という形をとりました。
徳川家は公家と姻戚関係を結ぶことで、家格をげようとしました。
天皇家を望んだのは、民衆ではなく、武家権力でした。
野間
天皇制と官位の研究をしたら、律令の時代から今日の位階勲章制度にまで繋がっている。
江戸時代は、官位によって、着るものから駕籠の色まで違う。
だから大名たちは官位を買うためにすごい大金を使って、藩の財政が潰れかけた例もあります。
官位というのは、相場もあり、商品なんです。
沖浦
この事を裏返すと、武家権力は賤民を蔑視していたという事です。
豊臣秀吉は、検地をしつつ、賤民対策もした。
元々、天皇家は、自分たちが「化外の民」と呼ぶ人々を制圧していき、同時に天皇家の氏神である天照大神を日本全体の神にしていった。
戦前の日本で行われていた、生徒を伊勢神宮に参詣させることは、そこと繋がっています。
武士権力は、最後まで天皇に対するコンプレックスを捨てきれず、天皇制を廃絶しなかった。
野間
賤民論を欠落させたまま天皇論をやってもダメなのです。
沖浦
二項対立の片一方を抜かしてやっては、ダメです。
(2024年5月1&11日に作成)
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