タイトル四国の被差別部落の歴史

(『日本の聖と賎 中世篇』野間宏と沖浦和光(かずてる)の対談本から抜粋)

沖浦和光

私は、高知県で3番目に大きい被差別部落である、赤岡町の部落を訪ねました。

ここは古い史料が残っているという話で、見せてもらいました。

この部落の起源は、中原秋家という地頭が関東から赴任してきた時です。

中原秋家は、芸能者や陰陽師を連れて赴任してきた。

それが鎌倉幕府の記録である『吾妻鑑』に出ています。

それで散所ができて、職人や芸人が住んで赤岡部落の起源となった。

この部落を統率したのは「さんしょう太夫」といい、明らかに「散所太夫」のことです。

その人は芦田主馬(しゅめ)太夫と名乗って、地域の陰陽師や唱門師(しょうもんじ)を統率していました。

この部落の芸人は、各地を遊行したそうです。

部落の氏神である美宜子(みきこ)神社は、ご神体は傀儡です。

つまり木彫りのヒトガタの傀儡が神体です。

野間宏

そのような古い起源の部落史は、追究しなければなりません。

日本文化史の鉱脈なんです。

沖浦

付け加えると、赤岡部落には明治の初期に、かなりの数のキリシタンが囚人として流されています。

九州の島原にいた隠れキリシタンたちが、明治維新の時に立ち上がりました。

しかし明治新政府は、キリスト教を認めず、弾圧した。

それでキリシタンの3384名が、流罪の判決を受けて各地に流されました。

そのうち613名は殺されてます。

赤岡部落にも流されてきて、その収容所の跡があります。

しかし赤岡では村人がキリシタンに同情して、殺人などは起きなかった。

野間

キリシタンについては、島原の乱の時に徳川幕府はほとんど殲滅しましたよね。

沖浦

当時、キリシタンとして逮捕された者は、非人の身分に落とされました。

大阪の千日前の非人部落には、キリシタンが沢山いました。

野間

千日前にある竹林寺は、非人の寺で、そこの古文書に実態が出ているんです。

赤岡部落の人たちは、自分たちが差別されて、苦界(くがい)で生活してきたから、キリシタンという被差別者への共感や同情があったのでしょう。

沖浦

高知県の部落の取材では、こういう話も聞きました。

昔からお遍路さんが四国の88ヵ所を回ってますが、遍路に出る人は村から疎外された人が多かった。

貧乏で口減らしのため出ていくか、病人や身体障害者が世話をしてもらえず、仏にすがって死ぬまで遍路をして回ったのです。

お遍路さんは、木綿の白装束に手甲(てっこう)と脚絆(きゃはん)をつけ、手に数珠を持ち、金剛杖(こんごうづえ)で歩きますが、菅笠(すげがさ)には「同行二人(どうぎょうににん)」と書いてある。

同行者は弘法大師(空海)で、その霊に見守られる体裁で歩き続けます。

その巡礼者を、四国の街道筋の人は世話する習俗がありますが、一番温かく迎えたのは部落の人々でした。

動けなくなった人を最後まで世話したりしたと聞きました。

野間

四国では戦前までは、弘法大師が巡礼姿で村々に現われると、信じている古老もいたようです。

それで親の命日に巡礼者を自分の家に泊めて、善根(ぜんこん)を積む人もいました。

沖浦

善根宿(ぜんこんやど)や接待宿は、仏教の宗教心に発してはいますが、民衆の相互扶助の伝統がなければ実現しないものです。

野間

非人、つまり「人に非ず」と差別される病人や障害者の乞食を、断らずに救いの手を差し伸べるのですから、本当にすごい行動です。

沖浦

それが本来の仏教精神です。

野間

これが本当の功徳で、大きい寺や仏像を建てるのが功徳だとしている上流階級には、そういう精神はありません。

仏教は、底辺の民衆が実践してきたのです。

沖浦

お遍路の巡礼者の白装束は、死装束ですからね。

その姿で死ぬまで歩き続けて、乞食(こつじき)をしながら生きていく。

この苦行によって浄土への道を見つけようとした。

多くの巡礼者はのたれ死にましたが、無縁仏として彼らを葬った小塔の多くが、部落のそばの街道にあります。

(2024年5月12日に作成)


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