(『日本の聖と賎 中世篇』野間宏と沖浦和光(かずてる)の対談本から抜粋)
沖浦和光
大阪の南部にある古い部落の南王子村は、今日では和泉部落になっています。
ここは有名な信太(しのだ)の森がある所で、すぐそばに『延喜式』にも出ている聖(ひじり)神社があります。
聖神社の森が、信太の森なんです。
この部落の記録は、江戸時代のものはしっかり残っています。
聖神社のそばに、かつて舞村(まいむら)と呼ばれた集落があって、陰陽師らが住んで暦(こよみ)を売っていた。
史料によると、舞村は長享2年(1488年)までさかのぼれると、『和泉市史』第1巻にあります。
この陰陽師たちは、土御門家の許可を得ておらず、モグリで暦を発行していました。
野間宏
聖神社の神ですが、ひじりは柳田国男(やなぎたくにお)が指摘するように、「日を知る人」に通じる。
呪術や卜占をする陰陽師の祭神(さいじん)なのですか。
沖浦
聖神社の境内には古墳が数基あり、昔から土蜘蛛窟(つちぐもくつ)と呼ばれてました。
先住民の土蜘蛛が住んでいたという伝承があります。
それとは別にこの古墳は、信太首(しのだおびと)族ゆかりのものです。
和泉の国は、百済(朝鮮の国))から来た人々が開拓した土地と言われてますが、信太首も渡来系です。
野間
信太首は、進んだ農業技術や陰陽道に通じていて、自分たちの祭神として聖神社を創建したという事ですか。
沖浦
『和泉市史』も、そのように推定しています。
もともと陰陽道を日本に持ってきたのは、百済から来た学者たちでした。
野間
ところがやがて、陰陽師たちは賤民として扱われるようになった。
沖浦
南王子村は穢多として、舞村は宿(しゅく)として、差別されてました。
宿は、穢多・非人ではないが、律令的にいって良民ではなく、賤民でした。
百姓が多かったのですが、良民との結婚はできなかった。
奈良県は、大和七宿といわれる大きな宿があった所で、今でも住民は賤民と見られて差別されています。
陰陽師の集落は全国各地にありますが、賤民と見られて一般住民と結婚が許されていません。
藤守りや、火葬にたずさわる、隠坊(おんぼう)部落も同じです。
野間
古代では、陰陽師たちは天文や卜占に関わる者として、役人になっていました。
それが中世に入ると、急速に没落しましたね。
沖浦
南北朝の大乱があってから、賀茂家と安倍家の陰陽師支配体制は崩れました。
それで声間師などの民間活動が主になった。
折口信夫は、古代の被差別民だった「山人(やまびと)」が修験道に入って「山伏(やまぶし)」になり、そこから陰陽師に転じたと書いています。
民間の陰陽師たちは、豊臣秀吉の時代に徹底的に弾圧されました。
そして江戸時代の初期に、安倍家の系譜から土御門家が復興されて、全国の陰陽師を統轄して免許を与える権限が、朝廷から与えられた。
でもモグリの陰陽師たちが、暦を非合法で売っていたようです。
(2024年5月17日に作成)
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