タイトル熊野街道(紀州)の部落、一向宗、かわた、沖仲仕

(『日本の聖と賎 中世篇』野間宏と沖浦和光(かずてる)の対談本から抜粋)

沖浦和光

私は、和泉から紀州南部に至る熊野街道の筋にある、古い部落を何回か訪れています。

そのほとんどは、人口が千人を超える大部落です。

その住民たちは、慶長時代の検地帳では、仕事は「かわた」となってます。

しかし実は皮革(ひかく)の仕事ではなく、江戸時代から船の荷揚げが主な仕事で、仲仕(なかし)組合をつくって生計を立ててました。

この海沿いの地域の部落は、戦国時代の雑賀(さいか)水軍や、海のワタリ業と関係があったのではないでしょうか。

雑賀衆の一向一揆と、被差別部落は関わりがあったのではないかと、注目しています。

野間宏

その地域の寺院は、やはり浄土真宗ですか。

沖浦

そうです。
蓮如は布教にも来ています。

孤立無援の彼らにとっては、悪人も浄土へ行けると説いた法然や親鸞の教えが頼りだったのです。

野間

今日では、部落の寺院は90%以上が本願寺派でしょう。

沖浦

そうです。

「一切衆生(いっさいしゅじょう)・平等往生」を唱えて、それまでの貴族の仏教を批判したのが、法然と、その弟子の親鸞でした。

下層の民衆にとって、貴族仏教は全く救いの手を差し伸べてくれなかった。

律令の僧尼令(そうにりょう)を見ても、僧侶が寺院を出て民衆に布教すること自体が、禁止されていたんです。

この事を、貴族仏教の総本山だった延暦寺で学んだ法然と親鸞は疑問視して、民衆の中に入って布教したのです。

しかし江戸時代から、部落の寺院は「穢寺(えじ)」として、本願寺の内部で差別されてきました。

野間

熊野街道は、熊野詣で、いわゆる熊野三社参りで賑わいましたね。

沖浦

京都から熊野までは、街道沿いに王子の社が建てられ、熊野九十九王子(くじゅうくおうじ)として有名でした。

天皇ら貴族たちは大行列で熊野詣でをし、後白河院は31回も参詣(さんけい)しています。

天皇ら貴族が熊野詣でをする時は、経費や労力は沿道の民衆から強制的に徴用しました。
だから多くの民が苦しみました。

貴族の参詣だと、京都から熊野までの往復は平均24~25日でした。

一般民衆はもっと日数がかかったでしょう。

野間

江戸時代の初期には、賤民層は「かわた」と呼ばれました。

字は、「皮田」「革田」「皮多」が一般的で、「川田」もあった。

これは皮革関連の仕事をしていなくても、賤民層はこう呼ばれました。

沖浦

「かわた」の呼称は、 (室町時代に)今川氏の領土で、皮革職人の確保のための身分固定から始まりました。

それが次第に、賤民層を表す呼称として広まったんです。

でも江戸時代を通じて、皮革の仕事に従事した部落民は全体の数%でしょう。

他の人々は、掃除、清目(きよめ)、下級の警吏や刑吏をしたりしてました。

強調しておかねばならないのは、部落の人々の仕事のかなりの部分が農業だったことです。

小作が多く、自分の土地があっても狭くて痩せているので、いろんな副業をしていたのです。

皮革の仕事をする者は、死んだ牛馬の処理を課せられ、皮をはいで売ってました。

その権利は、旦那場権、草場権などと呼ばれ、権利は株化して売買されてました。

株を持つ少数の親方は、財を築いた者もいました。

しかし部落の全体が利益を配分されたわけではありません。

野間

江戸時代は、牛馬の数は多くないし、とても部落全体が生活できる利益にはならなかったでしょう。

沖浦

不殺生戒の厳しい時代ですから、生きている牛馬を殺すこと認められなかった。

そして死んだ牛馬でも、皮をはぐ者には厳しい蔑視の目がそそがれたわけです。

当時の賤民たちは、能や芝居や角力などの興行権や勧進権、祭礼における持場の権利、草履やわらじを売る権利、祭礼での先払いと警固の権利を認められていました。

この先払いも、元は清目から出たんでしょう。

彼らの中には、官人や村の警固、番人や、葬式の雑役(ぞうやく)をする者もいました。

当時は、「皮」という文字そのものが、差別的なイメージで用いられてました。

野間

皮という文字には、穢れの意識が込められていたのですね。

沖浦

紀州の中部で領主として勢力があったのは、湯川氏です。

湯川氏は、羽柴秀吉の雑賀攻めの時、最後まで徹底抗戦しました。

湯川氏は、一向一揆や本願寺と深い結びつきがありました。

浄土真宗に入信し、吉原浦に道場を建ててますが、現在の本願寺・日高別院の前身です。

野間

紀州の海岸沿いの部落は、今でも海に関係する仕事をしていますか。

沖浦

沖仲仕をしています。

海沿いの部落は、農村地帯でも河口で土地がないので、沖仲仕の仕事が中心でした。

荷物を積んだ船が来たら、荷をおろし、木材などを代わりに積む。
江戸時代からです。

仲仕組合は、江戸時代からあり、人数は300人超でした。

沖仲仕は大変な重労働で、みんな腰をやられる。

しかし身体に障害が出ても 働かせてもらえなければ生きていけない。
何の福祉政策もない時代ですから。

だから屈強な者も、ほとんど運べない身体障害者も、賃金は平等の配分でした。

その慣習で文句を言う者はいなかった。

野間

たいした共同体意識ですね。

沖浦

沖仲仕は、嵐になった時や不況の時は仕事がなくなります。

その時は隣の農業だけをやっている被差別部落から、食糧の差し入れがありました。

その代わりに田植えの時なんかに、沖仲仕は皆で手伝いに行った。

そうやって助け合って生きていました。

こうした助け合いは、被差別部落だけではなく、下層の人々は皆そうやって生き抜いていました。

両親が亡くなってしまった幼子の田んぼを、村人全体で成人するまで交代で耕した話もあります。

野間

江戸の長屋でも同じでしたね。

彼らも一人前の市民権はなかったので、義理人情で生きていました。

沖浦

仲仕組合の長を選ぶのは、江戸時代から組合員の直接選挙でした。

皆のために働く有能な人を選ばないと、すぐに仕事が取れなくなるからです。

部落は差別されたため、共同体性が最後まで残ったんです。

もちろん共団体にはマイナスの面もいっぱいありますが、義理人情で結び合わないと生きていけなかったのです。

(2024年5月17~18日に作成)


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