(『日本の聖と賎 中世篇』野間宏と沖浦和光(かずてる)の対談本から抜粋)
野間宏
日本の賤民文化について、最初に研究したのは誰ですか。
沖浦和光
やはり折口信夫です。
彼の研究は、『古代研究』として結実しています。
「まれびと」、「ほかいびと」、「うかれびと」といった独自のキーワードを使いつつ、「化外の人」として疎外されときた「海人」や「山人」が文化芸能の源泉だと指摘しています。
「まれびと」は、初春などに、人々の家の門で呪文を唱えて歩いた人です。
これがいわゆる寿言(よごと)で、秘法として口伝されてきた。
「ほかいびと」は、容器を持って、食べ物を入れてもらうために家々を回る乞食のことです。
「うかれびと」は、巡遊の伶人でした。
彼らは、ほかいびとでもあった。
折口信夫は、呪言→寿言→叙事持→物語という系譜を想定し、文学の源もここにあると考えました。
折口は、「賤民の文学」という一章をたてて、海語部の芸術、傀儡の民、社寺奴婢の芸術を論じています。
野間
社寺奴婢というと、犬神人や寺奴のことですね。
折口のまれびと論は、今では日本民俗史の1つの鍵となる概念です。
沖浦
折口信夫が、賤民文化に着目したのは、1922年に水平社の運動が盛り上がったことや、喜田貞吉が賤民史に取り組んで労作を発表したことから、刺激を得たのかもしれません。
野間
喜田貞吉の先駆者としての役割は、偉大でした。
沖浦
そう思います。
喜田貞吉の個人雑誌である『民族と歴史』の、第二巻・第一号(1919年)で特集した部落史の研究が、日本で最初の学問的な部落研究でした。
彼は、アイヌ民族や朝鮮人と日本人の歴史的な関わりも研究し、業績を残しました。
野間
喜田は京大の先生だった人で、そういう立場の人が部落問題を取り上げたのは、異例のことでした。
沖浦
喜田貞吉は、水平社にも協力したし、思想・実践・人格の三拍子が揃った、田中正造のような偉人でした。
喜田は、次のように回顧しています。
「多年の因習から、部落の人々をはなはだしく差別して忌避(きひ)する風習が、各地に残されていた。
世間の人々は、部落民を朝鮮人の子孫だなどと言っていた。
しかし自分は、郷里に部落があって、少年時代から交際したためか、直感的にそうは考えなかった。
自分は中学時代に、士族の子や城下の子から、何かにつけて百姓だの郷中者(ごうちゅうもん)だと侮辱の言葉を受けていた。
だから部落の人に同情を感じたようだ。
部落に出入りすると、その人々がいかに苦痛をなめているかが分かった。
だから自分は、研究をもって、社会の啓蒙に供するなら有意義だと考えた。
研究を重ねると、部落問題は種族の問題ではなく、もっぱら境遇の問題だとハッキリした。
明治40年頃に柳田国男くんと、この事で意見交換したことがある。」
野間
こういう学者がたくさん出ていたら、部落解放運動はずっと違ったでしょう。
沖浦
でしょうね。
もちろん戦時中から戦後にかけて、賤民文化の研究では、能勢朝次、高野辰之、林屋辰三郎、森末義彰、原田伴彦、盛田嘉徳の業績がありました。
民俗学でも、柳田国男、折口信夫、中山太郎、掘一郎の業績があります。
第二次大戦中に発表された、三好伊平次の『同和問題の研究』は、各地の部落を回って史料を編集したもので、芸能史の重要な史料も入っています。
野間
民衆に視点を置いた、新しい日本史が書かれるべきと、最近は言われていますね。
沖浦
これまで学校で教えられてきたのは、日本のオモテの文化です。
つまり、天皇・貴種、武家、その取り巻きの歴史です。
民衆の文化、特に創造的な仕事を担った賤民の文化は、陽の当たらぬ場所に抑え込まれてきました。
精神史における聖と賤の関係は、文化史にそのまま投影されてきました。
民衆の精神史が土俗的で価値なきものとして抹殺されてきたように、民衆の文化も不純でおどろおどろしいものと見られてきたのです。
野間
賤民文化は、ハミ出した異人(ことびと)のものして、穢れの領域に追いやられてきました。
これは日本だけでなく、アジア全域で見られます。
沖浦
中国でもインドでも、芸能者は、賤ないし穢の身分に位置づけられていました。
野間
日本の節分などの行事では、芸人は神や仏の代理人である「祝言人」(ほかいびと)として歓待されます。
しかしそのウラで、芸人たちは「異人」として蔑視されてきた。
沖浦
江戸時代には全国各地で、初春の祝言人が見られ、ほとんどが被差別民が担っていました。
部落の人は、元旦など(年中行事の時)は祝言人として歓待されるが、それが終わるとひどい差別をうけました。
野間
ハレの時は「客人」(まれびと)として歓待するが、日常のケに戻れば「乞食人」 (ほかいびと)として賤視する。
沖浦
ほかいびとに対する両義性が現われていますね。
部落民や放浪芸人が賤視されたのは、体制外の存在というのも大きな理由ですが、彼らが呪術者の系譜をひくのも理由でしょう。
野間
日本の祭りで行われる舞いや踊りは、シャーマンが神降ろしで演じたのが始源なんです。
古代は、科学も技術も未発達なので、何かをするときに呪術に頼らざるを得なかった。
沖浦
古代の呪術的な「神遊び」や「神懸り」(かみがかり)が、しだいに芸能へと展開していったわけです。
つまり呪術的な儀式こそ、芸能の原点といえます。
野間
古代の芸能は、中国や朝鮮から渡来したものを除けば、先住民たちが担っていました。
先住民たちは、大和朝廷に征服されると、服従の誓いとして自分たちの芸能を捧げることを強いられました。
沖浦
私は何年か前に、大和の吉野川の上流で行われる、「国栖奏」(くずのそう)を見ました。
この祭りは、1000年以上の歴史があります。
吉野川の物産を朝廷に献上する儀式なのですが、蛙のようにはいつくばって献上します。
これは明らかに、征服者と被征服者の関係ですね。
国栖は、『神武東征記』にあるように、天皇家の軍に徹底的にやられた先住民の部族です。
彼らの穴居時代の遺跡も残っています。
野間
捕虜として連行されてきた隼人(先住民)が、天皇の住居の守衛をさせられて、夜になると犬のように遠吠えをさせられたという。
あれも呪術ですね。
沖浦
そうです。隼人の持つ呪力が利用されたのです。
でも東北の蝦夷(先住民)は、徹底抗戦したので、天皇家は利用していません。
伊勢神宮のそばに連行されてきた蝦夷の補虜は、必死の抵抗なんでしょうが、夜になると泣き叫ぶので、すぐに他所に移されています。
野間
世阿弥は、猿楽(申楽、さるがく)の起源は古代の神懸りにあると考えてます。
アメノウズメノミコトが、アマテラスが天岩屋戸にこもった時にやった神懸りを、申楽の始めだと、著書『風姿花伝』で指摘しています。
沖浦
「乞食所行」と呼ばれた猿楽能も、「河原者」と呼ばれた歌舞伎も、シャーマニズムを色濃く残しています。
野間
それにしても、シャーマンはなぜ賤視されるようになったのでしょうか。
邪馬台国の女王ヒミコも、記紀神話のアマテラスも、シャーマンでしょう?
沖浦
古代前史では、シャーマンは民を統べる者として君臨していました。
しかし(大和政権による)各地の征服が進んで、支配者が国家宗教を制定すると、シャーマンは弾圧されました。
野間
シャーマンの持つカリスマ的な権威は、不平不満を持つ民衆を一挙に組織化する可能性がある。
権力者はそれを警戒したわけですね。
沖浦
ヒンドゥー教のように、呪術をうまく吸収して、自分たちの儀礼に取り込む例もあります。
仏教では、密教がそうですね。
神への絶対的な服従をさせる宗教国家から見れば、シャーマンは民を惑わす存在なわけです。
ヒンドゥー教では、漂泊の芸人たちはカースト制度の外にいる者として、不可触賤民の扱いです。
野間
かつては聖なる者だったシャーマンが、やがて穢れた者にされる。
権力者が宗教的な祭祀権を完全に手中に収めると、シャーマンが邪魔になる。
沖浦
古代の葬礼は、呪術の色彩が濃く、「殯」(もがり)が行われていました。
野間
殯は、死者を納めた棺を一定期間、安置して、死者の復活を待つ儀式です。
その間はずっと食事を供えて、歌舞音曲をやり、哭泣(こくきゅう)を行うと、古記録にあります。
沖浦
殯の呪術を行なったのが、「遊部」(あそびべ)ですね。
古代人は、人が死ぬと魂が肉体から離れると考え、その漂泊する魂を呼び戻せば蘇生すると信じていた。
だから殯をしたわけです。
野間
遊部を統轄していたのは、「土師氏」(はじし)ですね。
沖浦
土師氏の下で働いた土師部は、土器づくり、土木工事、埴輪(はにわ)の製作もした。
土師氏は、葬礼に関わっていたから、しだいに賤視されるようになった。
野間
だから土師氏は、改名を願い出ますね。
上の立場の自分たちまで賤視されてはかなわんと言って。
沖浦
それで天皇家の葬礼や陵墓の管理をしていた土師氏は、8世紀の後半に「菅原」に改姓しました。
野間
古代では権威を持っていた陰陽師たちも、しだいに勢力を失いましたね。
沖浦
修験道も同じです。
修験道者は、呪術に連なる者として、仏教の正系から完全に外されました。
野間
修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)は、朝廷に弾圧されましたね。
沖浦
役小角は、妖術を使って民を惑わしているとの理由で、伊豆に流されました。
でも民衆にとっては、朝廷の権威に対抗するヒーローでした。
大和、紀伊、近江などの被差別部落は、修験者たちの末裔といわれる所があります。
葛城山の山麓にある部落は、大和朝廷と対立した葛城王朝の主神である、一言主神(ひとことぬしのかみ)を祭る神社のすぐそばです。
野間
「山窩」(さんか)と呼ばれた被差別民は、どうですか。
沖浦
山窩は、農村に定住せず、山奥の河原で小屋掛けをしながら生活していた人々です。
山窩の末裔という部落は各地にあり、椀や杓子(しゃくし)などを作って山里に売りにくる。
しかし今では漂白生活はやめて、定住しています。
(2024年5月25、31日に作成)
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