(『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋)
印刷術、火薬(火器)、羅針盤は、ヨーロッパにおけるルネサンスや大航海時代を可能にした発明である。
実は、この3つの発明は、中国がヨーロッパよりも数百年も先んじていた。
中国では11世紀には発明されていた。
だから「中国人は科学の才能がない」という人は、中国を知らないと言っていい。
それならば、なぜ中国は、欧米に近代化で遅れをとったのだろうか。
最大の理由は、久しく競争相手になる国が無かったからだろう。
東アジアで最も地味の豊かな所は、中国の大平原(中原)であり、その周辺は砂漠や高原や密林や海洋で物資に乏しい。
昔から中国人は、「自分たちの住む所は最も豊かで、文化も栄えている。これに対し周辺地域は物に乏しく、住んでいるのは未開の野蛮人である」と考えてきた。
だから周辺の人々や国を、「戎」「狄」「蛮」「夷」と呼んで、卑しんできた。
この考え方を、『中華思想』という。
『中華思想』には、「世界は中国の皇帝のもので、この世界には対等の国はない」との考えもある。
この思想は、他の民族や国から見ると尊大に思える。
だが中国は恵まれた環境にあるので、2千年もの間、この思想が続いた。
長い間、中国の周辺の民族や国は、中国を宗主国とあおぎ、属国となってきた。
周辺の国主たちは、中国の皇帝に臣従して王に封じられてきた。
各地の王たちは、使節を皇帝に送って貢物を献上する、「朝貢」を行ってきた。
この関係が、中華思想を自然に育んだともいえる。
中国にはライバル国が居なかったので、進んだ科学技術を持ちながらも、ついに自らの手で近代を創らなかったのである。
もう1つ近代化が遅れた理由として、中国の哲学者である孔子の教え「貧しきを患(うれ)えず、均(ひと)しからざるを患う」がある。
この教えの意味は、「国が貧乏なのは心配しなくていい。大事なのは、平等に物を分配することで、平等に分配しないと大変なことになる」だ。
中国は、周辺国よりもずっと物が豊かなので、平等に分配すれば人々は周辺国よりもずっと良い暮らしができる。
結果として、社会に不満は生じない。
つまり平等に分ければ、天下は泰平となる。
しかし均等に分配しないで、貧富の差が激しくなると、食えなくなった連中は暴れだす。
中国では、民を憐れまない皇帝は誰が殺してもいい。(人々はそれを容認する)
平等な分配は、儒家(儒教の学者)が理想とした世界だ。
実際に、隋唐の時代に行われた「均田制度」は、人の能力に関わりなく、一様に土地を分配する制度だった。
だが儒教の「貧しきを患(うれ)えず、均(ひと)しからざるを患う」の考えだと、社会はのんびりして動きは緩慢になる。
中国史を見ると、王朝の末期は、貧富の差が甚だしくなった時である。
皇帝は危機感をもち、土地の均分を図ったり、大土地所有の制限をしようとする。
だが大地主から土地を取り上げることは、自らを縛ることになる(皇族や皇帝の側近は土地をたくさん持っている)し、なかなか出来ない。
結局、貧富の差が大きくなるばかりで、やがて食えなくなった者が流民となる。
流民が増えると、各地で動乱が起きてくる。
そして流民にリーダーが現れると、大動乱になる。
しかし大抵の場合は、大動乱でも王朝は倒れない。
大乱は10年くらいで平定され、王朝はなお数十年ほど続く。
だが権力は、もう皇帝には無くなり、大乱を平定するのに功績のあった将軍や大官の手に移る。
その将軍や大官たちは、勢力を拡大していき、中国は群雄割拠の状態になる。
そして勝ち残った者が王朝を倒して、新しい王朝を創る。
新王朝になった時、貧富の差はずっと小さくなっていて、農民たちがわりと均等に土地を持っている。
これは社会革命が実現したからではなく、前王朝の末期に起きた天災や人災や戦争で、非常に沢山の人が死に、地主が逃亡し、土地台帳が焼かれたからである。
社会の矛盾が根本解決したわけではないから、泰平の世が続くうちにまた貧富の差はひどくなり、やがて動乱になって王朝は滅びていく。
この繰り返しが、中国で起きてきた。
清朝の歴史も同じであった。
清朝の時代は、人口が非常な勢いで増加していた。
土地が開拓され、サツマイモ、トウモロコシ、ピーナッツといった新しい作物も現れて、人口が増えても食糧には困らなかった。
しかし貧富の差はだんだんひどくなり、開拓できる土地も無くなってしまった。
清は外国との貿易をほとんどしない鎖国政策を採っていたから、食糧の輸入もない。
ところが贅沢を覚えた官吏や地主や商人たちは、農民から搾取して一層の贅沢をしようと図った。
農民たちは、借金をしなければ生きられない状態となり、天災があるとどうにもならず土地を捨てて物乞いをする流民となった。
流民の中には、役所や金持ちの家を襲う者も出た。
こうして暴動や反乱が増えていき、ついに清も滅亡したのである。
(2022年2月13日に作成)