タイトル契約のアークがエチオピアに運ばれた説①

(『神々の刻印』グラハム・ハンコック著から抜粋)

エチオピアの伝承によると、契約の聖櫃(せいひつ、アーク)は、エルサレムの神殿からエチオピアに運ばれた。

そのエチオピアの伝承によると、旧約聖書に出てくるシェバの女王はエチオピアの君主で、エルサレムに旅をしてそこでソロモン王の子を身ごもった。

シェバの女王は、エチオピアに戻ってから子を産み、産まれたのは男の子で、メネリックと名付けられた。

メネリックは20歳になるとエルサレムに旅をして、父親のソロモンに会った。

そして息子であると認知されたが、イスラエルの長老たちがエチオピアに帰すよう進言し、ソロモンはある条件でこれを受け入れた。

その条件とは、メネリックの帰還にあたって、全ての長老の長子を同伴させることだった。

イスラエルの大祭司ザドクの子アザリウスもその1人で、アザリウスはエチオピアに行く際に契約のアークを盗み出した。

アザリウスが盗み出したことを、メネリックはエルサレムを離れてから知り、アークをエチオピアに持っていくことに同意した。

エチオピアにいるアークの番人によると、昔は重要な祭りのたびにアークは(保管場所から)持ち出されていた。

その後は、ティムカットと呼ばれる1年に1度の、1月に行われる儀式の時に限られるようになった。

旧約聖書によると、契約のアークは、十戒(じっかい)の書かれた2枚の石板を収めるために作られた木製の箱である。

長さは1m15cm、幅と高さは70cmである。

箱の内側と外側は純金でおおわれ、翼のある2体のケルビム(天使)が向かい合わせについた重い金の蓋がのっていた。

アークは、炎や光を放ち、人間に腫瘍や火傷を負わせ、山を崩したり、敵軍をけちらしたりした。

ソロモン王がエルサレムに神殿を建てたのは、アークを安置するためだった。

ところがこの箱は、紀元前10~6世紀の間に、エルサレム神殿から消え失せた。

不思議なのは、聖書にアーク消失のエピソードが全く無いことだ。

確かなのは、紀元前586年にネブカドネツァルの軍がエルサレムを攻撃して炎上させた時、すでにアークが失われて久しかったらしいという事だけである。

前538年に、バビロン捕因を解かれて帰還したユダヤ教徒たちがエルサレムに神殿を再建した時も、アークはそこに無かった。

旧約聖書では、ソロモン王の治世(前970~931年)までは、アークに触れた箇所が200以上ある。

しかし、その後になると、ほとんど言及がない。

私は1983年に、エチオピアに行って、「エチオピア人の聖なる町」と呼ばれるアクスムを訪ねた。

冒頭のアークの番人との出会いは、そこでの出来事である。

エチオピアでは、1974年に革命が起きて、皇帝ハイレ・セラシエが廃位させられて、メンギストゥ・ハイレ=マリアム中佐が国家元首となり独裁者となった。

ハイレ・セラシエは廃位されて9年後に、メンギストゥの刺客により枕で窒息死させられた。

私が1983年にアクスムに向かった時、エチオピアでは反政府ゲリラの「TPLF(ティグレ人民解放戦線)」が活動していた。

TPLFは、1991年5月に、メンギストゥの政権を倒すことになる。

アクスムは、過去に何百年もエチオピアの首都だった所だ。

なお現在の首都は、アディスアベバである。

ちなみに「アビシニア」は、エチオピアの別称である。

6世紀にアクスムを訪れた、キリスト教の修道士コスマス・インディコプレウステスは、こう書いている。

「エチオピア王の宮殿は、サイのはく製などが飾られ、数頭のキリンが飼われている」

この頃のエチオピアは、エジプト、インドなどと船で交易して繁栄し、すでにキリスト教を国教にしていた。

エチオピアでキリスト教が国教になった事情は、4世紀のルフィニウスの著作に記されている。

それによると、アクスム王国でエザナが即位すると、側近だったフルメンティウスはエジプトのアレクサンドリアに向かった。

フルメンティウスは、アレクサンドリアの総主教アタナシウスに会見し、「エチオビアでキリスト教が広まっているから、指導者を派遣してほしい」と懇願した。

アタナシウスは、フルメンティウスを主教に任命して、アクスムに戻って布教するよう命じた。

こうしてフルメンティウスはアクスムに戻り、331年にはアクスム王エザナがキリスト教に改宗した。

現存するエザナの治世のコインは、後期になると十字架が刻印されている。
十字架の入ったコインでは、世界最古の部類に属する。

アクスムは1~10世紀にエチオピアの首都だったが、そこにある遺跡は2000年以上も前に造られたものもある。

さらにエチオピアの伝説によると、アクスムの教会に、契約のアークが保管されているという。

私がアクスムに着き、案内人のゼレレウに尋ねると、次の話をしてくれた。

「アークは、ある礼拝堂に安置されています。

その礼拝堂は、1965年に皇帝ハイレ・セラシエが造らせたもので、それまでは何百年も 『シオンの聖マリア教会』にアークは置かれていました。

ハイレ・セラシエは、シェバ女王とソロモン王の間に生まれたメネリックの、225代目の子孫だといいます。

アークのある場所に入れるのは、たた1人の僧だけで、彼がアークを管理する役目をしています。

私たちの伝承では、シェバの女王の名はマケダといい、アクスムを首都にしていました。

アクスムには立派なオベリスクがありましたが、1935~41年のイタリアによる占領時代に、イタリア軍が持ち去りました。

今ではローマのコンスタンティヌスの凱旋門近くに立っています。

アクスムにある、17世紀半ばに建てられた『シオンの聖マリア教会』は、皇帝ファシリダスが命じて造らせたものです。

その教会の近くにある廃墟は、最初のシオンの聖マリア教会の遺構で、4世紀に建てられました。

しかし1535年に、イスラム教徒の侵略者アフメド・グラニュによって、最初のシオンの聖マリア教会は破壊されました。」

アフメド・グラニュの破壊の少し前に、ポルトガル人の修道士フランシスコ・アルヴァレスがこの教会を訪れて、その様子を書き残している。

案内人のゼレレウによると、最初の『シオンの聖マリア教会』の着工は372年だった。

ここは、アークを保管するために建てられた。

アフメド・グラニュの侵略の前に、それを予測してアークは他の場所に移された。
そしてアークは破壊や略奪をまぬがれた。

100年後にアークはアクスムに戻されて、皇帝ファシリダスが建てた第二の『シオンの聖マリア教会』に安置されたのである。

(2024年5月25日に作成)


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