(『神々の刻印』グラハム・ハンコック著から抜粋)
エチオピアにユダヤ教が入ったのは、学界ではイエメン経由でエチオピア北部から入ったとしている。
しかし昔から、エチオピア北部にはユダヤ教徒は少なく、ほとんどはタカゼ川の西と南に住んでいる。
ユダヤ教徒たちは、タカゼ川から南西方向に、タナ湖を囲んで居住している。
メネリックたちがアークを持って来て、タナ湖のタナ・キルコス島にアークを置いたなら、そこから布教が始まっただろうから、つじつまが合う。
私は1990年1月に、タナ湖の北にある町ゴンダールに行き、ティムカット祭を調査した。
ゴンダールは、アクスムの近くで、かつてエチオピアの首都だったこともある町だ。
ティムカット祭は、各教会に保管している契約のアークのレプリカを持ち出して、かつぐ祭りである。
ゴンダールには「ケマント」というユダヤ教徒の一派がいると聞き、取材することにした。
1989年に、エチオピアとイスラエルの国交が回復し、ファラシャ(エチオピアのユダヤ教徒)がイエスラルに移住する許可が成立した。
この結果、イスラエルに移住する者が増え、エチオピアに住むユダヤ教徒は急減し始めていた。
ケマントのワンバル氏に話を聞くと、ケマントの始祖はアナイェルといい、ファラシャの始祖と同じく、中東のカナンの出身だと言う。
アナイェルは、ノアの息子ハムの息子であるカナンの、孫だという。
飢饉があったのでカナンの地を離れて、エチオピアに移住した。
ケマントの教えは、ユダヤ教の律法と一致する点が多い。
しかし全くユダヤ的と思えない、聖なる木立ちの礼拝を習慣にしている。
後に旧約聖書を調べたところ、ユダヤ教の最初期には木立ちが聖なるものとされて、木立ちで礼拝があったと分かった。
たとえば創世記には、「アブラハムはベエル・シェバに1本の木を植え、そこで主の御名によって祈った」とある。
ヘブライ人は、木立ちを礼拝に用いることを、カナン人(約束の地の先住民)から借用した。
この木立ちは高所(バモス)に設置され、木立ちにはタナ・キルコス島で見たような供犠用の石柱(マセボス)が置かれた。
旧約聖書では、この木立ちの儀式がどんなものかは、書いていない。
旧約聖書に儀式の言及がないのは、後のユダヤ教の大祭司たちが、この慣習を厳しく弾圧し、聖なる木立ちを切り倒して、マセボスも破壊したからである。
旧約聖書で失われた儀式は、エチオピアで生きのびたと思われる。
(※ユダヤ教は、古い教えを守っていると言われることが多いが、実は変化してきたのである)
ケマントの宗教は、ユダヤ教以外の要素が多い。
これに対しファラシャは、ユダヤ教徒そのもので、だからこそイスラエルの内務省は、1975年に帰還法を適用して、ファラシャにイスラエルの市民権を与える道を開いた。
ファラシャに対しイスラエル移住の認可が遅れたのは、ファラシャにはタルムードの影響がなかったためだ。
タルムードは、前200~後500年にまとめられた、ユダヤ教の律法と、その解説書である。
ファラシャは、最初期のユダヤ教の教えを守っていた。
ファラシャの社会は、トーラーの教えに忠実で、モーセ5書(創世記など)を崇拝していた。
ファラシャの共同体では、レビ記などにある古い教え(禁忌)を守り続けていた。
例えば安息日には、いかなる仕事もしてはならず、水を流してはならず、火を燃やしてはならず、冷たい食事と飲み物だけを許されている。
私が1990年1月にゴンダールを訪れた時、すでにファラシャの大半はイスラエルに移住した後だった。
だか聖職者をつとめるソロモン・アレムは、まだ残っていた。
ソロモン・アレムに尋ねたところ、ユダヤ教徒たち(メネリックたち)がエチオピアにやって来た時、「一行はエルサレムを出発し、エジプトとスーダンを通ってやって来た」と伝承されていると言う。
また、「メネリックたちは道中のほとんどを、ナイル川に沿って旅してきた」と言う。
ソロモン・アレムは、私にとって初耳のことを教えてくれた。
「道中で一行は、アスワンとメロエで休息しました。」
アスワンはエジプトに、メロエはスーダンにある都である。
ファラシャだけでなく、エチオピアではキリスト教徒たちも、モーセ5書の古い教えを守ってきた。
男児は誕生して8日目に割礼するとか、妻と性交した後に教会に行ってはならない、といった教えである。
他にも、鳥肉や豚肉を避けて食べず、特に腰の筋肉を「禁断の筋肉」として避けている。
私は、ゴンダールでのティムカット祭を見物してみて、3千年前にエルサムの門の前で起こった事とそっくりだと思った。
旧約聖書には次のように書いてあるが、それにティムカット祭が似ているのである。
「ダヴィデとイスラエルの全ての家は歓声をあげ、トランペットを鳴らして主のアークを運び上げた。
琴、タンバリン、コルネット、シンバルなどを主の前で鳴らした。
ダヴィデは主の前で力のかぎり踊った。主の前で跳ねたり踊ったりした。」
(2024年6月3日に作成)