タイトル契約のアークがエチオピアに運ばれた説②
ケブラ・ナガスト、シャルトル大聖堂

(『神々の刻印』グラハム・ハンコック著から抜粋)

私は、イギリス人でエチオピア研究の第一人者である、リチャード・パンクハースト教授に話をきくことにした。

契約のアークがエチオピアにあるという伝承について訊くと、その伝承の最も古い記録は、『ケブラ・ナガスト』という13世紀の写本だと、彼は言う。

パンクハースト教授は、シェバの女王の国はエチオピアではなく、アラビアにあったと考えていた。

だが彼はこうも言った。

「古代にエチオピアとエルサレムの間に交渉があったのは文献から明らかで、エチオピアの文化には濃厚なユダヤ教の香りがする。

エチオピアには、『ファラシャ』というユダヤ教徒の集団が住む土地もある。

ファラシャは、たいへん古風なユダヤ教の慣習を守り続けており、彼らこそ失わなれたイスラエルの民だと言う人もいる。

イスラエル政府は、ファラシャをユダヤ人と認めたので、ファラシャはイスラエルの帰還法によって、イスラエルの市民権を取得する姿格を得た。

1~2世紀に、たくさんのユダヤ教徒がエチオピアに移民し、原住民の一部をユダヤ教に改宗させた。

ファラシャは、その改宗者の子孫だろう。

1世紀にはローマ軍がパレスチナを占領して、ユダヤ教を迫害したから、逃げたユダヤ教徒が多かったはずだ。

だがファラシャ達は自分たちのことを、『契約のアークと共にエチオピアに来たメネリックに付いてきた、イスラエルの長老たちの子孫』だと思っている。」

私は、パンクハースト教授に訊いた。

「ファラシャの言い分が正しい可能性もありますか?」

彼が答えた。

「ノーだ。
実はアークがエチオピアに来たとされる時代に、まだアクスムは存在しなかった。

もしメネリックがソロモンの息子なら、アクスムに来たのは紀元前940~930年代あたりだ。

だがアクスムが建設されたのは、前3世紀以降だ。

現在では、エチオピアのユダヤ教徒は2万人もいない。
そして、そのほとんどがイスラエルに移住しようとしている。」

エチオピアにあるキリスト教の教会には、それぞれ「タボット」(契約のアーク)が置かれている。

しかしアクスムにあるもの以外は、全てレプリカである。

それにしてもキリスト教の教会に、なぜユダヤ教の遺物であるアークがわざわざ置かれているのか。

これを考えると、シェバの女王とソロモン王、その息子メネリックの伝説を信じたくなる。

私がエチオピアを訪ねた1983年の当時、エチオピアにはユダヤ教徒(ファラシャ)はいない事になっていた。

というのは、エチオピアはOAU(アフリカ統一機構)に加盟していたが、中東戦争(イスラム教徒とユダヤ教徒の戦争)の以降、アフリカ諸国はイスラエルと断交していたからである。

(※アフリカ諸国にはイスラム教徒が多い)

しかし実際には、エチオピアとイスラエルは秘密裏に関係を持っていた。

イスラエルはエチオピアに軍事援助して、その代わりにエチオピアは毎年ごとに数百人のファラシャにイスラエルへの移民許可を与えていた。

さらに数千人ものファラシャが、隣国スーダンの難民キャンプに行って、イスラエルに移送されるのを要求していた。

私は取材のため、エチオピアのファラシャの村に行ってみたが、貧窮化した農民たちの村にすぎなかった。

そこは、イスラエルから贈られた安っぽい品物であふれていた。

ファラシャたちは、誰もヘブライ語が読めなかった。

『エチオピア正教会』という1970年に刊行された本には、「タボットは教会に聖性を与えるもので、契約のアークである」とある。

リチャード・パンクハースト教授は、こう説明してくれた。

「タボットは、聖書の記述にあるアークよりはるかに小さい。

大英博物館には、タボットの実物があるよ。
ネイピア将軍が19世紀に略奪して、イギリスに持ち帰ったものだ。

ハクニーの民族学資料館に行けば見られるはずだ。」

私はさっそく行って見せてもらったが、いずれも木製の板で、長さや幅は45cm以下、厚みは8cm以下だった。

私は失望して、アークの調査をいったん止めてしまった。

私はその後、1988年~89年に、エチオピアを扱う写真集にたずさわった。

その仕事上、『ケブラ・ナガスト(王たちの栄光)』という、エチオピアの古い文献を読んだ。

これは(冒頭でリチャード・パンクハースト教授が教えてくれた通り)13世紀に成立した(写本された)本で、最初に編纂されたのは6~7世紀だという。

原本は、古代エチオピアの典礼用の言葉である、ゲエズ語で書かれている。

イギリス人のウォーリス・バッジが、1920年代に英訳した。

私は1989年4月に、フランスを旅行し、古い町シャルトルを訪れた。

そこにあるシャルトル大聖堂は、最初期のゴシック建築で、今日までほぼ完全な状態で残っている。

シャルトル大聖堂のガイドブックには、この建物にはゲマトリア(古代ヘブライ人の数秘術) が用いられ、複雑なメッセージが表現されていると書いてあった。

私はそこに、シェバの女王の彫刻があるのを知った。

この彫刻が作られたのは13世紀初頭だが、シェバの女王などを書いた『ケブラ・ナガスト』が完成した時期でもあった。

『ケブラ・ナガスト』によると、女王はユダヤ教に改宗したという。
しかし旧約聖書には、改宗したとは書かれていない。

ガイトブックを見て、1200年から1225年にかけて造られた北扉口にも、シェバの女王の彫像があると知った。

見にいくと、女王はソロモンの横に置かれ、しかも女王の足下にはアフリカ人の像があった。

ガイドブックには、そのアフリカ人は「黒人の召使い」「エチオピア人の奴隷」とあった。

つまりシャルトル大聖堂の彫像は、シェバの女王をアラビアではなく、アフリカと結びつけている。

この作者は、シェバの女王とエチオピアの伝承を知っていた可能性がある、と私は感じた。

よく見ると、シェバの女王の彫像から1mの所に、アークのような大きさの箱まであった。

ガイドブックを見ると、そのうち1冊は「契約のアークである」と解説していて、そこに彫られた碑文も書いてあった。

私は碑文の写しをとり、ラテン語に詳しいピーター・ラスコ教授に見せることにした。

さらに観察すると、アークはシェバの女王像とメルキゼデク像の間にあると気付いた。

これは、メルキゼデク(古代イスラエルを象徴していると思われる)からシェバの女王にアークが渡されたと見ることも出来るのではないか。

メルキゼデク像は、左手に柄の長いカップのようなものを持ち、カップの中には固形の円柱状のものが入っている。

これについてガイドブックは、こう解説していた。

「これはヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの詩と関係づけられよう。

ヴォルフラムは、テンプル騎士団に属していたと言われるが、テンプル騎士団にとって聖杯は石だった。」

私は、ピーター・ラスコ教授を訪ねて、こう話した。

「シャルトル大聖堂のメルキゼデク像は、旧約聖書の時代のイスラエルを表していると考えます。

メルキゼデクはシャレムの祭司王だし、シャレムとはエルサレムのことですからね。

一方、アフリカ人の奴隷を従えたシェバの女王は、エチオピアを表しています。

アークは2人の間にあって、エチオピアを目指している。

これは『ケブラ・ナガスト』の内容に一致します。」

ラスコ教授が答えた。

「たしかに13世紀に、エチオピアの伝説がヨーロッパに伝わっていた可能性はある。

それを示唆する論文を、1つ見たことがある。

しかし『ケブラ・ナガスト』の物語が、シャルトルに伝わっていたとしても、なぜ大聖堂にその内容を刻まなければならないかが、私には分からない。」

「メルキゼデク像はカップを持っていて、中には円筒状のものが入っています。」

「おそらくパンを表しているのだ。」

「しかしカップは聖杯で、中身は石という説もあります。」

「私がさっき言った論文は、同じことを論じていた。

ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの聖杯物語が、エチオピアのキリスト教に影響されていると論じていた。
しかも聖杯は、カップではなく石だと。」

「エッシェンバッハとは何者なんですか?」

「中世初期の詩人で、聖杯をテーマにした『パルチヴァール』という作品を書いた。
書いたのは12世紀後半か13世紀はじめだ。」

「シャルトル大聖堂の北扉が造られたのと同じ時期ですね。」

私は、ジャルトル大聖堂で写した碑文の翻訳を、ラスコ教授にお願いした。

彼によれば、いくつかの解釈が可能で、「いざ行かしめん、汝が譲り渡せしアークよ」や、「隠されし契約のアークは、ここにあり」と読めるという。

私は興奮した。
もしかしたら、シャルトル大聖堂の建築者たちは、アークがエチオピアに運ばれたのを知っていたのではないか。

(2024年5月26日に作成)


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