タイトル聖杯の物語について、プレスター・ジョン

(『神々の刻印』グラハム・ハンコック著から抜粋)

私は調査をしている中で、行方不明になった契約のアークと、聖杯伝説に関わりがありそうだと知った。

そこで、多くの聖杯物語を読んでみた。

1182年にクレチアン・ド・トロワが残した未完の『聖杯物語』や、1195~1210年にかけて書かれたとされるヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』などである。

『パルチヴァール』を読むと、聖杯とは「石」である。

トロワの『聖杯物語』では、聖杯は広口の器である。

両者共に、聖杯とキリスト教を結びつけず、キリストの血とも結びつけていない。

調べたところ、聖杯物語のキリスト教化は、シトー修道会が進めたと分かった。

そしてシトー修道会の政策を決めていたのが、クレルヴォーのベルナールである。

シトー修道会は、1098年にベネディクト会のロベールによって、フランス東部のシトーにて創設された。

この修道会は、清貧と労働という原始の修道院への回帰を目指した。

1112年にシャンパーニュの貴族であるベルナール(ベルナルドゥス)が入会してから、急速な発展をとげた。

13世紀にシトー修道会の者が『聖杯の探索』を編纂した時、すでにベルナールは亡くなっていたが、聖杯とキリストの血を強く結びつけた。

ローマ教会はこの見方を取り入れ、聖杯とイエスの母マリアを象徴的に同一であると説いた。

12世紀にベルナールは、はっきりとマリアを契約のアークにたとえた。

アークが十戒という「古い律法」を収めたように、マリアはイエスという「新しい律法」を胎んだと説いたのだ。

この考えは、現代のキリスト教信仰にも受け継がれている。

ピーター・ラスコ教授が言及し、教えてくれた論文(これは前回の記事に出てくる)を、私は入手した。

その論文は、1947年に発表されたもので、著者はヘレン・アドルフである。

アドルフは、「ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは、クレチアン・ド・トロワの作品に大きく影響されながらも、別のオリエントを起源とした聖杯物語を知っていた」と論じている。

クレチアン・ド・トロワの『聖杯物語』より前には、歴史上でも神話上でも聖杯は存在しない。

それまでも魔法の大釜といった似た話はあったが、それをトロワは聖杯物語にしたのである。

トロワは聖杯物語を書き終えなかったが、その数年後にエッシェンバッハが引き継いで書き始めた。

エッシェンバッハは、全般的にトロワの物語を借用しているが、明らかな違いとして聖杯を石に改変している。

ヘレン・アドルフによると、エッシェンバッハは『ケブラ・ナガスト』の内容を知る機会があり、契約のアークがエチオピアに移されたという要素を『パルチヴァール』に取り入れた。

エチオピアの各教会が持つ「タボット」は、本物のアークのレプリカと言われているが、調べたところ、その多くは石でできている。

アドルフは、『パルチヴァール』の石としての聖杯は、エチオピアのタボットに由来すると主張している。

旧約聖書においては、契約のアークは器であり、中には十戒を記した2枚の石板が収められている。

アークは、古代のユダヤ教徒にしばしば啓示を下し、時には神と見分けがつかない事もあった。

聖杯とアークには、共通する特徴ある。

例えば重量が変わることで、エッシェンバッハは「聖杯は純粋な心なら動かせるが、罪に汚れた者には決して持ち上げられない」とする。

モーセが十戒を刻んだばかりの石板を持ってシナイ山を下りてきた時も、モーセが率いる民たちは黄金の子牛を拝むという大罪を犯しており、石板から文字が突如として消え、石板はとほうもなく重くなった。

『パルチヴァール』にも黄金の子牛が出てきて、こう書かれている。

「フレゲタニスという異教徒の医師は、イスラエルの民の父ソロモンの後裔だった。

自らの神として子牛を崇めていたフレゲタニスは、惑星の周航を説明でき、星座に隠された秘密を見たと述べた。

彼は星座の中に聖杯を読み取った。」

フレゲタニスは、聖杯は天体に由来すると示唆しているが、アークに収められた石板は「2片の隕石だった」という説がある。

古来からセム族は、天から落ちてきた石を崇拝する文化があった。

イスラム教も同じで、メッカのカーバ神殿にある聖なる黒石は、天国から落ちてきたと言われている。

地質学者はこの黒石を、隕石と見ている。

イスラム化する前のアラブ人は、砂漠を旅する時に「ベティルス」という聖石を2個持つ習慣があった。

これも隕石だったという。

この習慣は、中世ヨーロッパでは「ラピス・ベティリス」という聖石になり、魔術や占いに用いられた。
これも隕石だった。

『パルチヴァール』では、聖杯に「ラブジト・エクシルリース」という名を付けている。

これは、「天国の石」、「天国から落ちた石」という綴りに由来するという。

聖杯とアークは、光を放つことでも共通している。

さらにクレチアン・ド・トロワの描く聖杯は純金でできていて、アークが純金で覆われていたのと似ている。

モーセが十戒の石板を手に山を下った時、彼の顔は光を放っていた。

『パルチヴァール』でも、聖杯を手にしたレパンセ・デ・ショイエは顔が明るく輝いている。

レパンセ・デ・ショイエは、王女で純潔の人という設定である。

面白いのは、聖杯が彼女を選んだことで、レパンセの手によって整杯は運ばれた。

聖杯が人を指名して、そうでない人が力づくで聖杯を手に入れることは出来ないのが、『パルチヴァール』の聖杯の重要な要素である。

旧約聖書の民数記では、アークは人々が行く道を選び、宿営する場所まで決めている。

また歴代誌では、レビ人だけがアークを担げる選ばれた者としている。

『ケブラ・ナガスト』に描かれるアークも、自分の行き先を自分で決めている。

私は、『パルチヴァール』に契約のアークがエチオピアに運ばれたことが描かれているのでは、と推測した。

パルチヴァールの冒頭では、「夜のように黒い人々」が住む、ツァツァマンクという遠い土地が言及され、 そこにヨーロッパ貴族の「アンジューのガハムレト」がやって来て、ベラカーネという女と恋に落ちる。

ベラカーネは、浅黒い女王として描かれおり、白い肌のガハムレトと違う肌だと強調されている。

2人は性交まで行き、ベラカーネは妊娠するが、ガハムレトは「騎士道に従ってすべき仕事ある」として、去ってしまう。

2人の間に生まれたのは男の子で、白と黒の2色の肌をしていた。

この子は、「アンジューのフェイレフィース」と名付けられた。

一方、好色なガハムレトはヨーロッパに戻ると、今度はヘルツェロイデという女王と結ばれる。

このヘルツェロイデも子を生み、それが物語の主人公のパルチヴァールである。

『ケブラ・ナガスト』でも、白人のソロモン王と黒人のシェバ女王が結ばれて、混血の男子メネリックが生まれている。

もしかすると『パルチヴァール』の作者ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは、エチオピアにアークが移されている事を知っていて、その知識を『パルチヴァール』の中に暗号として隠したのではないか。

『パルチヴァール』では、フェイレフィースがレパンセ・デ・ショイエ(聖杯の運び手)と結婚する。

2人の間に生まれた息子は、「プレスター・ジョン」と名付けられた。

パルチヴァールには、「人々はこの息子を、司祭ヨハン(プレスター・ジョン) と呼び、以後はその国ではすべての王がこう呼ばれた」とある。

周知のことだが、エチオピアに向かった初期のヨーロッパ人たちは、「プレスター・ジョン」という君主に会おうとしている。

そのプレスター・ジョンは、「ソロモン王の子孫で、メネリックの子」と称していた。

プレスター・ジョンを聖杯の番人にした叙事詩はもう1つあり、 『デア・ユンゲレア・ティトゥレル』(若きティトゥレル)という。

これは長い間、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの作とされてきた。

しかし最近になって、少し後世のアルブレヒト・フォン・シャルフェンベルクの著作と分かった。

『若きティトゥレル』は、エッシェンバッハの死から約50年後の、1270~75年に書かれたもので、「エッシェンバッハの残した資料に基づいて書かれた」と見られている。

シャルフェンベルクは、エッシェンバッハの名前を借用し、作風を真似して書いた。

『若きティトゥレル』では、聖杯がたどり着くのはプレスター・ジョンの国である。

私が気になったのは、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハが、プレスター・ジョンのことをエチオピアの国王としていたか、だった。

彼は、プレスター・ジョンの出生地を「インド」とし、レバンセ・デ・ ショイエも冒険が終わると「インド」に帰っている。

歴史家によると、プレスター・ジョンの名が歴史に現れたのは、フライジング司教のオットーというシリア人が書いた『年代記』の、1145年の項が最初である。

オットーによると、プレスター・ジョンは王にして聖職者で、東の果てに住むキリスト教徒でありで、強大な軍を持ち、エルサレムに援軍を派遣したいと思っているふしがあった。

(※当時は、ヨーロッパ人がエルサレムを支配し、王国を創っていた)

1165年になると、プレスター・ジョンが書いたという、キリスト教徒のヨーロッパの王たちに宛てた親書が出回った。

1177年の教皇アレクサンドル3世がプレスター・ジョンに宛てた親書では、フィリップという医者がエルサレムでプレスター・ジョンの使者と会ったことを書いている。

当時のヨーロッパでは、プレスター・ジョンの王国はインドにあると考えられていた。

しかし当時のヨーロッパ人がインドに言及する時、それは現在のインドではなかった。

ヨーロッパでは紀元前1世紀の頃から、しばしばエチオピアのことをインドと呼んでいた。

4世紀のビザンチンのルフィニウスの著作では、エチオピアのことを書いているが、インドとして記している。

14世紀になっても、フィレンツェの旅行家シモーネ・シゴリは、プレスト・ジョバンニをインド国王としている。

16世紀にポルトガルの使節団がエチオピアに送られた時、団員たちはインドのプレスター・ジョンに会えると信じていた。

使節団員のフランシスコ・アルヴァレスは、その体験記を、『インディアスのプレステ・ジョアンの国々についての真実の報告』というタイトルで発表している。

アルヴァレスは、エチオピアの皇帝をプレスター・ジョンと呼んでいるのだ。

ヨーロッパ人にとって長い間、 プレスター・ジョンの国は世界のどこかにある、非ヨーロッパ人のキリスト教国だった。

(2024年5月27日に作成)


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