(『神々の刻印』グラハム・ハンコック著から抜粋)
1187年に、イスラム軍を率いるサラディンが、エルサレムを落とした。
それまでエルサレムは、十字軍やエルサレム王に支配されていた。
その後、エチオピア王はサラディンと交渉して、エチオピア正教会がエレサレムの聖墳墓教会を所有することになった。
考えてみると、聖杯物語が登場したのは、十字軍が活躍した時代である。
クレチアン・ド・トロワが聖杯物語を生み出したのは、十字軍がエルサレムを占拠してから83年目の1182年であった。
そしてヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハが『パルチヴァール』を書き始めたのは、イスラム軍がエルサレムを陥落させて間もなくであった。
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは、著作『パルチヴァール』の中で、キオートという人から多くの情報を得たと述べて、「キオートは正しい物語を与えてくれる」と述べている。
研究者の中には、キオートとは当時のフランスの詩人であるギヨー・ド・プロヴァンだとする者もいる。
ギヨー・ド・プロヴァンは、エルサレムがサラディン軍に落とされる少し前にエルサレムに巡礼をしており、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ・バルバロッサにしばらく仕えていた。
フリードリヒ・バルバロッサは、1165年にプレスター・ジョンから親書をもらった1人である。
ギヨーあるいはキオートは、テンプル騎士団と密接な人だった。
そして『パルチヴァール』では、聖杯の番人たちは「テンプラーズ(聖堂騎士)」と呼ばれている。
エッシェンバッハは、テンプル騎士団員だったという説もある。
エレサレムにあるテンプル騎士団の本部は、かつてはソロモン神殿が建っていた場所にあった。
テンプル騎士団の正式名称である、「キリストとソロモン神殿の貧しき騎士たち」は、それに由来する。
そしてソロモン神殿は、契約のアークを安置する場所だった。
テンプル騎士団は、十字軍がエルサレムを占拠してから20年後の1119年に、エルサレムに行った9人のフランス貴族によって創設された。
初代総長となったユーグ・ド・パイヤンは、シャンパーニュ地方の町トロワから北に13kmのパイヤン村の出身である。
創設者の9人は、すべてシャンパーニュ地方の出である。
興味深い事実があるので、列記する。
①シャルトル大聖堂のあるシャルトルは、12~13世紀はシャンパーニュ伯爵の領地だった。
②創設者9人の1人であるアンドレ・ド・モンバールは、クレルヴォーのベルナールの叔父である。
ベルナールもシャンパーニュ出身だった。
③シャンパーニュ地方にあるトロワは、聖杯物語をつくったクレチアン・ド・トロワの故郷である。
④ユーグ・ド・パイヤンは、シャンパーニュ伯爵の従兄弟である。
シャンパーニュ伯爵も、1125年にテンプル騎士団員になった。
⓹クレチアン・ド・トロワの有力な後援者は、シャンパーニュ伯爵の妻だった。
テンプル騎士団の創設者たちは、1119年にエルサレムに行き、(エルサレム王の)ボードワン2世に頼んで、ソロモン神殿の跡地を本部にした。
それから7年間、騎士たちはほとんどその場所に居て、部外者の立ち入りを禁じた。
彼らは、その場所を発掘した。
最近になってイスラエルの発掘チームが、テンプル騎士団が掘ったと思われる地下道を見つけている。
その地下道は、「岩のドーム」の直下までつながっている可能性もあるが、現在はイスラム教のモスクになっており、調査は出来なかった。
「岩のドーム」の名称は、内部に巨大な石があることに由来する。
かつて、この石の真上にソロモン神殿は建てられていた。
前587年にエルサレムは、バビロニア人に侵略されたが、アークはその直前に巨石の下に作られた秘密の洞くつに隠されたとの伝説がある。
この伝説は、コダヤ教のタルムードやミドラシュや、バルク(第二バルク書)の幻視にも記されている。
おそらくテンプル騎士団も、上記の伝説を知っていたはずだ。
ユーグ・ド・パイヤンとシャンパーニュ伯は、テンプル騎士団が創設される前の1104年に、エルサレムに巡礼している。
この時に、契約のアークが地下に隠されているとの話を聞いたのではないか。
それでテンプル騎士団を創り、ソロモン神殿の跡地を本拠地にして、発掘したのだ。
エンマ・ユングは、著名な心理学者ユングの妻だが、聖杯伝説を研究した人でもある。
彼女はこう書いている。
「十字軍が生まれた背景には、エルサレムに隠された宝があるという観念があった。」
だが、テンプル騎士団はアークを見つけなかった。
もし見つけたなら、意気揚々とヨーロッパに持ち帰ったはずだ。
しかし7年間の発掘で、何かを見つけたと言われている。
1126年にユーグ・ド・パイヤンは、アンドレ・ド・モンバールを伴ってエルサレムを出発し、フランスに向かった。
2人は1127年にフランスに着き、28年1月にトロワ公会議に参加した。
この会議は、テンプル騎士団にローマ教会の庇護を付ける目的で開かれた。
会議はトロワで開かれたが、後にトロワ出身のクレチアン・ド・トロワは聖杯物語を書いている。
この会議は、書記をつとめるベルナールの司会で進行し、テンプル騎士団の会則を起草したのもベルナールだった。
ベルナールの熱烈な後援もあって、テンプル騎士団への入会者が激増し、騎士団はどんどん力を付けていった。
テンプル騎士団とベルナールの間には、取引があったと思われる。
1130年代にフランスで、いきなりゴシック建築が花開いた。
そしてベルナールは、ゴシック建築の普及を提唱した人である。
テンブル騎士団は、契約のアークは見つけられなかったが、発掘を通してソロモン神殿などの古代建築の知識を得たのだ。
その知識をベルナールに伝えたのだろう。
事実、テンプル騎士団は優れた建築技術を持っていた。
1218年に同騎士団の14代目の総長ギヨーム・ド・シャルトルが建てたアトリット城は、イスラム軍の度々の攻撃でも落ちず、造りが良いので今日もなお大部分が残っている。
ゴシック建策を普及させたベルナールは、こう述べている。
「教会に装飾は不要である。比率だけが重要なのだ。」
「神とは何か? 神とは長さであり、幅であり、高さであり、深さである。」
ゴシック建築は、1134年のシャルトル大聖堂の北塔の建設に端を発した。
それに先立って、ベルナールはゴシック建築を熱く説き、ほとんど毎日、建設業者と話し合っていた。
歴史家たちは、ゴシック建築が変然に花開いたことを、未だにうまく説明できない。
シャルトル大聖堂の彫像を見ると、契約のアークはエチオピアに運ばれたと示唆されている。
なぜテンプル騎士団とベルナールの後継者たちは、そのように考えたのか。
その知識は、エルサレムに亡命していたエチオピアの王子ラリベラから聞いたとしか考えられない。
この王子は、25年もエルサレムですごし、それからエチオピアに帰って、1185年に王国を樹立した。
(2024年5月28日に作成)