(『神々の刻印』グラハム・ハンコック著から抜粋)
1860年代に、アルメニア総大主教の特使ディモテオスが、エチオピアのアクスムを訪れて、契約のアークに収められているという石板を見せてもらった。
ディモテオスは、その石板はニセモノだったと記している。
だが、ディモテオスは一杯食わされた可能性が高い。
リチャード・パンクハースト教授は言う。
「神聖なものを、外部の人間に見せるはずがない。
ディモテオスの本を読んだことがあるが、ミスで勘違いだらけだった。
彼は尊大な男だ。
エチオピアの教会に対し、きわめて傲慢な態度だった。
だからアクスムの僧たちは、他の石板(タポット)でディモテオスを担いだのだろう。」
私は、エチオピア研究所のセルゲウ・ハブレ=セラシエ博士にも、ディモテオスの件をどう思うか聞いてみた。
「確かなのは、ディモテオスが本物を見ていないことです。
僧たちは偽物を見せたのです。
エチオピアでは、それぞれの教会がタボット(レプリカの石板)を持っており、中には10個以上のタボットを持っている教会もあります。」
エチオピアにあるタボットは、契約の箱というよりも、木や石でできた厚板である。
タボットとは、本当にアークに収められている石板を指すのだろうか。
気になった私は、エチオピア人の学者であるベライ・ゲダイ博士に聞いてみた。
ゲダイの解説はこうだった。
「エチオピア人なら誰でも、契約のアークがアクスムにある『シオンの聖マリア教会』に保管されていると信じています。
メネリック1世が、エルサレムに行って父であるソロモン王に会い、その後にアークはエチオピアにもたらされました。
タボットは、そのレプリカのことです。
本物の契約のアークは1つしかないが、教会たちはそれぞれレプリカを持っています。」
私は尋ねた。
「聖書の記述によると、契約のアークは長さは1m15cmで、幅と高さは70cmです。
しかしレプリカであるタボットは、長さや幅が30cm以下で、厚さも7cmを越えません。」
ベライ・ゲダイは言った。
「アブー・サーリフという地理学者が、13世紀の初頭にエチオピアを訪れて、契約のアークについて記述しています。」
私は、アブー・サーリフの書いた、『エジプトとその隣接諸国の教会と修道院』という本(B・T・エヴェッツの訳)を読んでみた。
そこには、次の言及があった。
「アビシニア人(エチオピア人)は、契約のアークを所有している。
中には2枚の石板が収められている。
アークの高さは人の膝くらいで、金で覆われている。
アークをめぐる儀礼は、年に4回、王宮で行われる。
その時はアークは教会から持ち出されるが、この4回とはキリスト降誕祭、洗礼祭(ティムカット)、復活祭、マスカル祭である。」
英国アカデミー特別研究員のエドワード・ユレンドーフ教授にも話を聞いてみたが、彼はこう解説した。
「真正のアークはアクスムにあり、他の教会のものはレプリカです。
そのレプリカは、契約のアークではなく、その中身、つまり石板のレプリカであるのがほとんどです。」
ソロモン王の時代(紀元前970~931年)には、エチオピアに進んだ文明はなかったという点で、学者の意見は一致している。
実はエチオピア人の多くも、この事を心の中では認めている。
『ケブラ・ナガスト』によると、エチオピアにユダヤ教がもたらされたのは、メネリックたちが契約のアークを持ってエチオピアに来た、前950年である。
しかし学者たちは、リチャード・パンクハースト教授もそうだが、2世紀よりも前にはユダヤ教はエチオピアになかったと考えている。
エドワード・ユレンドーフ教授は著作『エチオピアと聖書』の中で、「紀元後70~550年にかけて、ユダヤ教徒は長期にわたって南アラビアを経てエチオピアに来た」と結論している。
だが私は、ファラシャ(エチオピアのユダヤ教徒たち)の伝承や信仰を調査してみて、もっと昔にユダヤ教徒がエチオピアに来た可能性があると思った。
マルティン・フラットというドイツ人が1869年に出版した、『アビシニアのファラシャ』という本がある。
フラットはキリスト教の布教のために、1855年にエチオピアに来た人だが、こう書いている。
「エチオピアのユダヤ教徒は、預言者エレミヤの時代(前627年頃)か、それより前のソロモン王の時代から存在した。
というのは、ファラシャたちは、バビロニアとエルサレムのタルムードを何も知らない。これらは、バビロンの捕囚以降に作られたものだ。
またファラシャは、プリムの祭りも、神殿献堂の祭りも行わない。」
神殿献堂の祭りは、「ハヌカー」と呼ばれるが、前164年に始まった祭りである。
プリムの祭りは、前425年には広く流布していたようだ。
要するにファラシは、ユダヤ教の新しめの祭りやルールを知らない。
これはソロモン王の時代にエチオピアにユダヤ教徒が来て、それ以降は孤立してしまったからではないだろうか。
上述したマルティン・フラットと共にエチオピアで伝道した、ヘンリー・アーロン・シュテルンは、1862年に『アビシニアのファラシャのあいだで」という本を出している。
この本は、「ファラシャがモーセの律法を遵守しており、祭壇の上でいけにえを屠る儀式をしている」と書いている。
いけにえの動物を屠る儀式は、現在のユダヤ教ではもう行われていないが、ファラシャたちは19世紀末まで行っていた。
ユダヤ教の供犠(いけにえの動物を捧げる儀式)は、前1250年の出エジプト以降に変化し始めた。
シナイの荒野をさまよっている時に、契約のアークが作られ、幕屋という簡易テントにアークは置かれて、全てのいけにえは幕屋の入り口に捧げられるようになった。
この取り決めは、各地方の祠での供犠を無くし、中央集権化された礼拝の場で、供犠を独占するもくろみだった。
その後、前1200~1000年にかけて、中央集権した聖所がシロ(エルサレムの北20kmの所)に設けられた。
しかしシロが政変で放棄された間は、再び地方の詞での供犠が許された。
前950年までに、シロからエルサレムのソロモン神殿に、中央集権の聖所が移った。
だが地方の祠での供犠は続いた。
ヨシヤ王(前640~609年)の時代に、ソロモン神殿以外での供犠を禁じる法が施行された。
ユダヤ教徒たちはこの法を遵守し、前587年にソロモン神殿が破壊されてからも、他の場所で供犠はしなかった。
地方の祠で供犠をするユダヤ教初期の伝統は、もう復活しなかった。
バビロン捕囚から帰還したユダヤ教徒たちは、エルサレムに神殿を再建し、そこで供犠を復活させた。
この供犠のルールは、神殿が再建された前520年から、ローマ軍に神殿が破壊される後70年まで守られた。
後70年以降は、供犠の習慣は消滅した。
だが、ファラシャだけは例外だった。
彼らは、19世紀になっても供犠をしていた。
この事実から考えられるのは、ファラシャの祖先が地方の祠で供犠の行われていた時代にユダヤ教徒となり、その後に他のユダヤ教徒たちから孤立したことだ。
ファラシャは、最初のソロモン神殿時代にユダヤ教徒となり、その後は孤立したと考えられる。
ユダヤ教が前950年にエチオピアに伝わったと記す『ケブラ・ナガスト』が正しいなら、その証拠が見つかるはずだ。
そこで私はリチャード・パンクハースト教授に電話して、ファラシャの歴史について分かる史料はないかと尋ねた。
パンクハーストは、スコットランド人の探検家であるジェイムズ・ブルースが書いた 『ナイルの水源発見の旅 1768~73年』を挙げた。
さらに、歴代エチオピア皇帝の『王室年代記』も挙げた。
ジェイムズ・ブルースは、スターリングシャー家の貴族で、外国旅行に情熱を注いだ人である。
彼の本を読むと、エチオピアのユダヤ教徒(ファラシャ)の信仰や慣習、古代からの伝承を調査している。
そして、「4世紀の初めにはエチオピアにはユダヤ教が広く流布していた」と記している。
かつてウォロのマグダラ要塞(19世紀にネイピア将軍が率いるイギリス軍に攻撃され掠奪された)にあったエチオピアの古写本に、『古代の王たちの歴史と系譜』がある。
この本には、こう書いてある。
「331年にアビシニア(エチオピア)にキリスト教をもたらしたのは、アブナ・サラマだった。
この男はかつて、フルメントスあるいはフルメンティウスといった。
キリスト教が流入する前は、エチオピア人の半分はユダヤ教徒で、あとの半分は竜の崇拝者だった。」
エチオピアにキリスト教が伝わると、その後にエチオピア王はキリスト教に改宗し、ユダヤ教とキリスト教の戦争が始まった。
ジェイムズ・ブルースは、こう書いている。
「キリスト教への改宗が行われた時期、ユダヤ教徒は大きな機勢を誇っていた。
ファラシャたちは、ユダ族のソロモンとメネリックの血を引く者による統治を宣言して、ユダヤ教を捨てるのを拒否した。
キリスト教徒のほうも、ソロモンの血を引く者による統治を宣言し、抗争が始まった。
それぞれが別の王を擁して、多くの戦闘があった。」
『ケブラ・ナガスト』では、キリスト教徒のカレブ王について記し、ユダヤ教徒は神の敵なのでハつ裂きにすべきと書いている。
結局、キリスト教の側が勝ったが、この戦争は契約のアークをめぐる戦争でもあった。
キリスト教徒は何らかの手段で、アークをユダヤ教徒から奪った。
その後も長期に渡ってエチオピアでは、キリスト教とユダヤ教の戦争が続いた。
9世紀の旅行家エルダッド・ハダニが833年に書いた書簡は、広く出回ったが、そこにはこうある。
「失われたユダヤの三氏族はエチオピアに住んでいて、キリスト教の支配者と戦争を続けている。」
エルダッド・ハダニは、こうも書いている。
「エチオピアのユダヤ教徒は、第一神殿の時代(最初のソロモン神殿の時代) にエチオピアに移民した。
それはユダヤ王国とイスラエル王国が分裂して間もない頃(前931年頃)である。
だから彼らは、プリム祭やハヌカー祭を祝わない。
そればかりかラビ(律法博士)もいない。ラビは第二神殿の時代の制度だからだ。」
ファラシャの聖職者はカヘンというが、これはヘブライ語の祭司を表すコヘンに由来し、その起源は第一神殿時代にさかのぼる。
ハダニは、こうも書いている。
「ユダヤ教徒たちは、キリスト教徒との戦争の時、旗に『おおイスラエルよ、聞け。われらの神、主は唯一の神なり』と書いた。
彼らはついに敵の首に手をかけた。」
紀元後1000年頃に、アクスムを首都とするキリスト教徒のソロモン王朝は滅亡した。
ユダヤ教徒の女首長グディトの策謀でだった。
それから半世紀でザグウェ朝が成立した。
だがザグウェ朝は途中でキリスト教に改宗し、さらにキリスト教徒でソロモンの末裔を称する者に王座を譲り渡した。
12世紀のスペインはトレドの商人ベンハミンは、ユダヤ教徒の旅行家で、1159~67年頃に各地を旅行して『旅行記』を書いた。
そこにはこうある。
「エチオピアのユダヤ教は、キリスト教に隷従しておらず、山の頂きに町と城を構えている。
キリスト教徒との戦いに勝ち、思いのままに戦利品や掠奪品を持っていった。」
15世紀のユダヤ教徒の旅行者エリヤは、「ファラシャが山岳地帯で独立し、キリスト教徒のエチオピア皇帝と戦い続けていること」を、エルサレムのエチオピア人から聞いている。
1557年にイエスズ会のオヴィエド司教は、「ファラシャは山に隠れて、岩だらけの要塞にいるため、エチオピア王は制圧できずにいる」と書いている。
1563~94年に存位した皇帝サルサ・デンゲルは、17年にわたるファラシャ討伐戦争を行い、ファラシャの要塞を落とした。
ファラシャのラダイ王は捕まり、首をはねられた。
皇帝ススニヨスが即位した1607年以降も、ファラシャの討伐は続けられた。
20年にわたって激戦が行われ、捕まったファラシャの子供たちは奴隷として売られた。
ジェイムズ・ブルースはこう書いている。
「ファラシャの生き残りは、改宗するか死かを迫られ、改宗に同意した。
以後は、安息日にも農作業をするよう命じられた。」
最終的にファラシャはキリスト教徒に完敗し、それからは人口も減少していった。
皇帝ススニヨスの討伐戦で、ファラシャの独立は完全に奪われたのである。
19世紀後半に15万人いたファラシャは、1984年には2.8万人に減っている。
以上のように、今ではファラシャの数は少ないが、かつてはエチオピアにおいてユダヤ教が隆盛した。
(2024年5月29日に作成)