(『神々の刻印』グラハム・ハンコック著から抜粋)
エチオピアでは、1989年の5月19日にクーデターが起きた。
メンギストゥ・ハイレ=マリアム大統領は無事で、176名の反乱軍の指揮官が逮捕されたが、その中にはエチオピア軍の陸軍司令官と作戦本部長も含まれていた。
また統合参謀本部議長と空軍司令官は、逮捕を恐れて自殺した。
さらに国防相は、クーデター側に射殺された。
エチオピア軍は崩壊し、エチオピアは内戦状態となった。
軍はティグレ地方から全面撤退し、反政府ゲリラの「TPLF」(ティグレ人民解放戦線)が解放区だと宣言した。
さらに軍は、エリトリアの大部分からも撤退した。
エチオピアは内戦で混乱したが、私はエチオピアへの関心を失わなかった。
それで1989年6月に、リカ・ベルハナット・ソロモン・ゲブレ・セラシエと知り合った。
セラシエは、エチオピア正教会の長司祭だが、エチオピアにアークがあると述べた。
セラシエによると、契約のアークはエチオピアの戦争で、何度も使われた。
最近では1896年に、メネリック2世がイタリアの侵略者たちと戦ったアドワの戦いで、アークが使われたという。
アドワの戦いは、重武装したイタリア軍が1万7700人で侵略してきたが、メネリック2世の側は十分な準備もなかった。
それなのに大勝利している。
内戦が続く中、私は1989年11月にエチオピア入りした。
タナ湖とズワイ湖の調査をするためである。
この時、反政府軍はタナ湖の北50kmにある城塞都市ゴンダールを包囲していた。
だが私はリチャード・パンクハースト教授と共に、タナ湖に向かった。
タナ湖は巨大で、青ナイルの水源である。
ちなみにナイル川は、青ナイルと白ナイルが合わさったものである。
ナイル川のメインは青ナイルで、白ナイルは水量の半分以上がスーダン南部の沼地で失われてしまう。
私たちは、タナ湖のダガ・ステファノス島に到着し、長司祭のキフレ=マリアム・メンギストに会った。
契約のアークについて尋ねると、彼は「タナ・キルコスへ行きなさい。別の島です。そこにアークはありました。」と答えた。
それでタナ・キルコス島に向かった。
到着すると、司祭のメムフル・フィッセハに会った。
フィッセハは、次のように話した。
「アークはかつて、ここにありました。
ここからアクスムに運ばれたのは1600年前、エザナ王の時代です。
それ以来、アークはアクスムにあります。
契約のアークは、メネリック1世とその仲間によって、エルサレムのソロモン神殿から盗み出されました。
彼らはそれをエジプトまで運び、ナイル川をさかのぼってきて、それからタカゼ川をさかのぼり、エチオピアに来ました。
メネリックの一行はタナ湖に到着すると、今ではキルコスと呼ばれるこの島に、アークを安置しました。
アークは、この島に800年間も置かれました。
神殿のような建物はなく、 アークは天幕の中に置かれました。
当時の島民は、ユダヤ教徒でした。
後になってキリスト教に改宗し、エザナ王はアークをアクスムに運んで、教会に納めました。」
フィッセハの話を聞いて、私は質問した。
「アークがアクスムに運ばれたのが1600年前で、アークがそれまで800年間この島にあったとすると、アークがこの島に着いたのは2400年前になりますね?
つまり、紀元前400年にアークはもたらされたわけですね?」
フィッセハは言った。
「そうです」
「しかし前400年だと、ソロモン王のずっと後になります。
メネリックは、ソロモンの息子と言われています。
どういう事でしょう?」
「私は残された伝承をそのまま話したのです。」
「あなた方はかつてユダヤ教徒だったと言いましたね?」
「そうです。かつてユダヤ教の供犠を行っていました。
小羊を捧げることが、アークがアクスムに持ち去られるまで続けられました。
ある時、アッバ・サラマがやって来て、私たちにキリスト教をもたらしました。
それで私たちはキリスト教の教会を建てました。」
アッバ・サラマは、宣教師フルメンティウスのエチオピアでの呼び名である。
フルメンティウスは、後330年代にエザナ王とアクスム王国をキリスト教化した、シリア人の宣教師である。
メムフル・フィッセハは言った。
「この島で行われたユダヤ教の供犠(いけにえを捧げる儀式)では、(犠牲となった)小羊の血は器に集められました。
それから血は、石の上に振り撒かれました。
今でもその遺跡は残っています。」
私たちは、その石を見せてもらうことにした。
島の頂に近い高台に、3つの石柱が、台座の上に立っていた。
石柱は1~1.5mの高さで、太さは人の腿ほどである。
上端にくぼみがあり、深さは10cmくらいだ。
メムフル・フィッセハが説明した。
「くぼみは血を容れるためです。
供犠の後で、血の一部は石の上にまき散らされ、一部はアークの天幕の上にまき散らされ、残りはこれらのくぼみに注がれました。
供犠の血を集める器は、ゴメルと言います。」
私は話題をアークに切りかえて、確認した。
「アークがタナ・キルコス島からアクスムに運ばれたのは、1600年前で間違いないですね?」
フィッセハは答えた。
「はい。」
私は、エチオピアの首都アディスアベバに戻ると、大学図書館に行き、ユダヤ教の供犠について調べた。
するとタナ・キルコス島で見たのと同じ石柱が、シナイ半島やパレスチナにあり、ユダヤ教の最初期に使っていたと分かった。
石柱はマセボスと呼ばれ、高い場所に置かれて、供儀に用いられていた。
旧約聖書のレビ記には、「指を血に浸し、垂れ幕の前で、主の御前に7たび血を振りまく」とか、「贖罪のささげ物の血を、祭壇の側面に振りまき、残りの血を祭壇の基に絞り出す」とある。
ミシュナ(初期ユダヤ教の口承を編纂した史料)のヨマという小論には、ソロモン神殿で行われた供犠が書かれている。
そこには、こうある。
「羊や牛のいけにえは、血が器に集められ、凝固しないように血をかき混ぜる役がいる。
祭司は血を受け取り、アークと向かい合っている垂れ幕の上に1回、下に7回、振りかけた。
さらに祭壇の表面にも7回振りかけ、残りは流した。」
タナ・キルコス島のメムフル・フィッセハは、上記した通り、「アークはナイル川とタカゼ川をさかのぼり、タナ湖まで運ばれた」と語った。
『ケブラ・ナガスト』を読むと、メネリックと同伴者たちはエチオピアに着いた後、アークを「デブラ・マケダ」に運んでいる。
アークをアクスムに運んだとは書いていない。
デブラは山を意味し、マケダはシェバの女王を意味する。
調べたところ、タナ・キルコス島は、昔は「デブラ・セヘル」と呼ばれていた。
セヘルとは、ゲエズ語で「赦す」という意味だ。
『ケブラ・ナガスト』をよく読むと、メネリックは最初から最後まで陸路をとっている。
エルサレムを出発すると、まずガザに向かい、そこから陸路でエジプトに入ったようだ。
エジプトでナイル川に行きあたると、一行は「われらはエチオピアの水のほとりに着いた。これこそエチオピアから流れ出してエジプトをうるおすタカゼ川だ。」 と言っている。
タカゼ川は、エチオピアのアビシニア中央高地に源を発し、北西に向かってスーダンでアトバラ川と合流し、やがてナイル川に注ぎ込む。
エチオピアから見ると、ナイル川はタカゼ川の延長上にある。
アークをエチオピアに運ぶならば、ナイル川に沿って進み、それからタカゼ川をさかのぼるのがベストだ。
タカゼ川をさかのぼると、タナ湖の東岸から110km以内に到達する。
私はリチャード・パンクハースト教授と共に、エチオピアのズワイ湖に向かった。
ズワイ湖には、「デブラ・シオン(シオン山の島)」がある。
そこの住民はティグリニャ語を話すが、それは先祖が1030年前ティグレから移住したためと言う。
今は1989年だから、1030年前は959年になる。
ちょうどグディト女王が、ソロモン王朝を廃した(倒した)時期である。
デブラ・シオンの教会の伝承によると、グディト女王がティグレのキリスト教徒を攻撃した時、キリスト教徒たちはアクスムの「シオンの聖マリア教会」にあったアークを、デブラ・シオンに避難させた。
教会の僧によると、アークはデブラ・シオン島に72年間、置かれたという。
なお、この教会には古書がいくつもあるが、保存の仕方は最悪だった。
パンクハースト教授は嘆いていた。
(2024年6月3日に作成)