タイトル政治や組織は小さいほうが機能する
規模を追うのはやめよう
(2016.10.25.)

このところ、2020年に行われる東京五輪が、経費が3兆円を超える予想となり、大問題になっています。

当初計画の4倍の予算規模になっているのだから、大揉めになって当然です。

このままだと大会全体で赤字になるのは確実で、多くの建造物が大会が終わった後には赤字垂れ流しの状態となり、負の遺産となるでしょう。

良い思いをするのは、建設業者やそれとつるむ連中など、一部に留まることになる。

東京五輪を取り巻く状況は最悪で、「誰が責任者なんだ」との声が挙がるが、「はい、私です」と答える者がいません。

いま話題の築地市場の移転についても、「誰が責任者なんだ」との声が挙がっているが、石原元都知事をはじめ皆が「私の責任じゃない」と逃げの答弁に終始しています。

こうした状態は、「無責任体質」とか、「組織が腐っている」と言われる事が多い。

しかし、私は次々と出てくる不正や腐敗を見ていて、こう思ったのです。

「あまりに計画の規模が大きいので、誰も全体像を把握できていない。

そもそも予算が数千億円とか数兆円になると、現実感を持てない。

だから皆がイメージだけの認識となっていて、責任の取りようがないのだ。

この状況は、極めて異常なものである。

どんな事業も、現実感覚がなければいけないし、それが無ければ誤算に繋がる。

国も東京都も、組織として機能していないが、それは無責任もあるが、組織が大きすぎて現実感がない事が大きい。

あまりに人数と予算が大きいので、皆がフワフワと浮ついた状態で働いている。
地に足がついていない。

このままではいけない。

これを改善するには、もっと組織を解体・分割して、1つ1つを小規模にすればいい。」

誰でも考えれば思い当たるはずですが、500円とか1350円の金額だととても現実感があるけど、数十万円とか数百万円になってくるとだんだん分からなくなってきます。

普通の人にとっては、肌感覚でつかめるのは1千万円くらいまでじゃないかな。

人数についても同じで、数が多くなると現実感がなくなってきて、その組織に所属している実感がなくなってくる。

東京都の職員や大企業に勤めるサラリーマン達は、頭では理解しているつもりでも、自分のいる組織がどんな状態なのかはごく一部分しか知らないでしょう。

これは、都知事や社長といった重役でも同じ。

規模が大きくなりすぎると、人間の能力を超えてしまい、コントロールするのが難しくなります。

この事実を、地球人は素直に認める必要があります。

現在だと、組織の人員や予算や売上を大きくする者が、ほぼ無条件に称賛されています。

「規模を拡大する者が優秀な者だ」との固定観念があるために、「その規模拡大が社会にとって良い事なのか、コントロール可能なのか」があまり問われません。

この幼稚な価値観を変えて、『本当に良いこと、本当に有効なこと』を考えましょう。

ぶっちゃけた話、オリンピックは規模が大きくなりすぎていて、誰の手にも負えない大会になっています。

2014年のソチ五輪だって、本当にひどいものでした。
雪国のロシアで行われたのに、雪の降らないリゾート地のソチに場所を設定し、わざわざ大量のカネと資源を投じて人口雪で会場をつくるなんて、頭が悪すぎる。

「プーチン大統領って、本当にバカだな」と思いました。

オリンピックについては、開会式が大嫌いなんですよね。

下らない演出をたくさん入れて、やたらと派手なものにするが、「ちっとも面白くない、無駄の極致だな」と呆れるばかりです。

東京オリンピックを機能させるには、もっと分権が必要だと思います。

揉めているボート会場では、韓国に良いボート会場があるので、その自治体が手を挙げています

オリンピック協会のバッハ会長は、「会場をどこにするか迷っているなら、韓国の会場にするぞ」と小池都知事に脅しをかけていますが、望む所ですよ。

正直、巨大化したオリンピックを円滑に黒字に進めるには、1国だけでは無理だと思うのです。

韓国などに1部の種目を委ねることで、日本は楽になるし、韓国らも大会を盛り上げるのに一役買ってくれる。

私が都知事ならば、バッハ会長の脅しを逆手に取り、韓国にボート競技は任せますね。

夏季五輪も冬季五輪もそうなのですが、どんどん種目が増えていて、モンスターになっています。

パラリンピックも拡大しているから、よけいに対応が難しい。

そんな大会を、都知事とか首相とか五輪担当大臣とか少数の者に任せること自体が、無謀なんですよ。

いま冷静に振り返ると、これだけ巨大化した大会を、東京の狭いエリアだけで行うという最初の計画(コンパクト五輪の構想)は、あまりにずさんでした。

本当に机上の空論でしたよ。

話を本筋に戻します。

私の結論はこうです。

『権限を委譲したり、規模を縮小することは、恥ずかしい事ではない。

それを適切なタイミングで行える者は、極めて優秀である。

日本政府や大企業は、規模が大きすぎて機能していない。

もっと現実的な人数や予算になるまで、組織を解体・分割したほうがいい。』

私は先日に、国会議員の元秘書がどんな仕事をしていたかを語る、TV番組を見ました。

そうしたら、元秘書はこんな事を言っていました。

「議員の先生は秘書にとって神様で、先生はとても忙しいから、雑事はすべて私達がします」

「会議(委員会)に先生に代わってたくさん出席するが、1つの会議で電話帳1冊くらいの書類を渡される」

「帰宅するのは深夜で、寝るのはいつも午前2時で、朝6時に出勤する」

これを聞いた時、「駄目だ、こりゃ」と心底から思いましたね。

政治家も秘書も良い仕事ができない環境なのは、この発言を読むだけでも伝わってくるでしょう?

この最悪の労働状態は、「権限がごく一部の人に集中していること」から生じています。

問題なのは、この元秘書も、話の聴き手も、美談と認識している感があったことです。
「頑張っている、偉い人の仕事話」と捉えていました。

国会議員の現実離れした生活や、秘書のブラック労働を告白しているのに、それに当人も聴き手も気付いていないのです。
めちゃくちゃな労働状態で、それを放置しているのは恥ずかしい事なのに、自覚がない。

私は話を聞きながら、「こんな劣悪な労働を自覚のないままにしている者達が、労働者の環境改善を実現する法律をつくるはずがない」と嘆息しましたよ。

私は40年ほど今世をこなしてきて、『人間の能力には大差はない』という結論にたどり着いています。

もちろん才能のある無しとか、やる気のある無しは存在します。

でも、根本的な人間力を見ると、あまり差を感じないのです。

能力の低そうな人がいても、話をじっくりとしたり、色々な行動を見ていると、他の人よりも優れている面がある。

「そんな事を知っているの?」とか「そんなスキルを持っているのか!」という驚きを与えてくれます。

皆に能力があるのだから、誰かに権限を集中するのは効率的じゃない。

国会議員の発言や態度を観察すれば、「傑出した人物ではない」と分かるでしょ。

能力に大差がないのに、誰か1人に決定権や責任を負わせたら、上手く行かないですよ。
負わされた人が可哀相です。

政治家は偉いとか、大企業の社長は偉いとかの、偏見は捨てましょう。

そうすれば皆で支え合う組織が良いと気付き、私の訴える『政治や組織は小さいほうが機能する』という意見にも賛同できると思います。

そして、自分の手に負えない状況になってきたら、躊躇わずに他人や他の組織に委ねられるようになる。

私の愛読書である『神との対話』では、「進化した別の星に住む存在は、一極集中する都市生活を卒業して、小規模の単位でシンプルに暮らしている」と書いてあります。

「なるほど。効率性や機能性や快適性を追求していけば、そうなるな。」と感心しました。

出世したいとか、人よりも良い生活をしたいとの、見栄を排すれば、確かにこの結論になります。

小規模の単位のほうが、相手の顔が見えるし、すべてに現実感があって、細かい部分にまで気を使える。
無理がないし、無駄も生じにくい。

前述した元秘書の、寝るのがいつも午前2時、会議ごとに電話帳1冊の書類、上司は神様、と比べれば、どれだけ進化した生活は理解できるはずです。


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