(大統領の検屍官 シリル・ウェクト著から抜粋)
狙撃されたケネディは、現場から近いパークランド病院に運ばれた。
しばらくすると、ケネディは息を引きとる。
ダラス市の検屍官アール・ローズは解剖を行う旨を伝えたが、
シークレット・サーヴィスはピストルに手をかけながら、「それはダメだ」と告げた。
そして、パークランド記念病院から、遺体を運び出してしまった。
ジョンソン副大統領は、遺体とジャクリーン夫人がエア・フォース・ワン(大統領専用機)に乗るまでは、ダラスを離れることを拒んだ。
遺体は、夫人の希望により、メリーランド州ベセスダの海軍病院医療センターに運ばれた。
そして、午後8時から検屍・解剖が始まった。
解剖にあたったのは、検屍官ではなく、海軍の医師たちだった。
政府高官たちは、電話1本で最高の検屍官を呼べたのに、それをしなかった。
この解剖は、軍高官たちに監視されていたので、医師たちは様々な制約をうけた。
例えば、「背中の射創は切開するな」と命じられた。
その命令をしたのは、現場に居た人々の証言によれば、ホワイトハウス付きの主治医ジョージ・G・バークリー提督だ。
医師たちが脳の切開をしなかったのは、驚きである。
脳は外景をざっと調べられただけであった。
解剖の数ヶ月後には、解剖の大半を行ったジェイムズ・J・ヒュームズ中佐が、
「11月24日(暗殺の2日後)に自宅の暖炉で、検屍メモのオリジナルを焼却した」と
発表した。
警察の捜査も異常で、コナリー知事が着ていた服は、調査の前に洗濯されてしまった。
大統領を撃ったものと同じ弾丸がコナリーに命中したかを判定するためには、
服の調査が必要だったが、正確なテストは不可能となった。
犯行現場の捜査もひどく、その場にいた人々は全く拘束されず、目撃者たちは名前も聞かれずにその場を離れてしまった。
現場の保護もされず、エルム通りはすぐに車が通れるようになった。
私の親友で、あの日にパークランド記念病院で外科研修医をしていたチャールズ・クレンショーは、ケネディの体を見た。
クレンショーは、「頸部の正面にあった射創は、絶対に入り口の傷だった。」と言っている。
彼の証言は、ケネディの手当をした2人の外科医が行った記者会見の内容と一致している。
2人とも、「頸部の射創は入り口だった」と言った。
(しかし、政府のウォーレン委員会は「頸部の傷は出口」と発表した)
(2014年12月5日に作成)