(『シリアとレバノン』小山茂樹著から抜粋)
1939年9月に、第二次世界大戦が始まった。
41年6月に、イギリス軍と自由フランス軍はシリア・レバノン(レバント地域)に進攻し、同地域は両軍の管理下となった。
両軍は、「フランスの委任統治を終結して、シリアとレバノンを独立させる」と宣言した。
しかし、宣言後もフランスは、権限の移譲を実行しなかった。
43年7月のシリア議会選挙では、ナショナル・ブロック党が大勝した。
同党のクワトリが大統領に選出された。
43年8月には、レバノンでも選挙が行われた。
この選挙では、キリスト教徒が30議席、イスラム教徒が25議席、という配分の合意がなされた。
そして、キリスト教マロン派のフーリーが大統領となり、イスラム教スンニ派のスルフが首相となった。
レバノン新政府は43年10月に、『独立憲章』と後に呼ばれる、大胆な憲法修正案を提唱した。
ここでは、フランスからの権限の移譲、アラビア語を公用語とする、などが主張されていた。
これに対し自由フランス当局は、「フランスはいかなる権益も移譲しない」と声明を出した。
レバノン議会が独立憲章を可決すると、自由フランスは議会を解散させ、フーリー大統領やスルフ首相などを逮捕し、戒厳令を実施した。
この暴挙に対し、レバノン全土が立ち上がり、暴動・デモ・ストが全土を包んだ。
フランスは内外からの圧力に屈して、11日後に全員を釈放し、憲法の修正は実現した。
シリアでも、44年1月に議会で、「フランスの委任統治を承認しない」と宣言された。
フランスは、諸権限をシリア政府とレバノン政府に移譲していくことになった。
しかし、フランスが現地で組織していた特別軍隊「トループ・スペシアル」は維持しようとした。
フランスは、シリアを統治する手段として、トループ・スペシアルという軍隊を創設していた。
この軍隊は、アラウィ派やドルーズ派などのマイノリティ・グループから雇用をし、独立運動の弾圧などに用いた。
当時の独立運動は都市住民であるスンニ派で占められていたから、これはスンニ派とマイノリティとの対立を誘発した。
フランスは、対立をあおる事で、分割統治を有利に進めようとしていたのである。
トループ・スペシアルでは、アラウィ派が中心となり全体の25%に達したといわれる。
この軍隊は、フランスからの独立後にはシリア軍に編入されたので、アラウィ派とシリア軍の結びつきは強くなった。
シリアで反乱が起き、その首謀者がフランスに支援を求めると、フランスは軍隊をシリアに派遣した。
1945年5月29日に首都ダマスカスを空爆し、戦闘は各地に拡がった。
フランス軍の無差別殺戮に対して、英米は懸念を表明した。
46年2月に、国連はフランス軍の撤退を決議した。
同年4月にフランスは、シリアとレバノンから軍を撤退させた。
ここにようやく、両国は独立を達成した。
(2016年2月4日に作成)