第四代カリフ アリー(在位656~661年)
第一次内乱となる シーア派の登場

(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)

アリーを支持する人々は、「ムハンマドが神の意志で預言者に選ばれたように、カリフも神意によって決められるべきだ」と考えていた。

そのため、カリフが協議や選挙によって決められることに反対していた。

アリー支持派(後のシーア派)は、「ムハンマドのいとこで、ムハンマドの娘ファーティマの夫でもあるアリーこそが、神が定めたカリフになるべき人物である」と信じていた。

ところが、アリーのカリフ就任には、ウマイヤ家のムアーウィヤや、長老格のタルハとズバイルが猛然と反対した。

タルハとズバイルは、ムハンマドの妻だったアーイシャを担ぎ出し、バスラで同志を集めた。

656年12月に、アリー軍とアーイシャ軍は有名な決戦を行った。

アーイシャがラクダに乗って出陣した事から、「ラクダの戦い」と呼ばれている。

この戦いでアリー軍が勝ち、タルハとズバイルは戦死、アーイシャは捕まってメディーナに送り返された。

この後、アリーはメディーナに代えてクーファを首府とした。

しかし今度は、シリア総督のムアーウィヤが反旗をひるがえた。

657年の春に、アリー軍とムアーウィヤ軍は激突した。

長陣となり、協議の末に「それぞれの側から審判者を出して、結着をつけること」で合意した。

審判の中心は、『第三代カリフだったウスマーンの政策が、イスラムの教えに合致していたかどうか』であった。

ウスマーンが正しければ、ウスマーンを殺してカリフになったアリーは、正当ではない事になる。
(アリーは、ウスマーン殺害の首謀者の1人だった)

この審判が人間の手によって行われた事、アリーが審判に応じた事によって、一部の人々がアリー陣営から離脱した。

これはイスラム史上初の分派で、彼らは「ハワーリジュ派」と呼ばれている。

審判の結果は、「ウスマーンの無罪」であった。

アリーは不利な立場に追いやられ、661年2月にハワーリジュ派の刺客によって暗殺された。

アリーの死により、『正統カリフの時代』は終わり、『ウマイヤ朝の時代』となる。

ウスマーンの暗殺からアリーの暗殺までの動乱を、『第一次内乱』という。

アリーを支持した人々は、やがて『シーア派』と呼ばれるようになった。

彼らは、「預言者ムハンマドの血縁であるアリーの血統こそが、真のカリフである」と信じていた。

(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)

第3代カリフのウスマーンが殺されると、混乱の中でアリーがカリフに就任した。

だが、反乱軍がアリーを推戴したことで、「アリーがウスマーン殺害の黒幕ではないか」と疑う者が出た。

そして、『第一次内乱(656~661年)』が始まった。

アリーは、預言者ムハンマドの従弟で、ムハンマドの娘ファーティマの夫でもある。

しかしアリーに敵対するグループはそれに頓着せず、ムハンマドの未亡人であり初代カリフのアブー・バクルの娘でもあるアーイシャを担ぎ出した。

2つの勢力は656年12月に、バスラ郊外で会戦した。

アーイシャがラクダに乗って参戦したことから、「ラクダの戦い」と呼ばれている。

アリー軍が勝利し、アーイシャは丁重にメディーナへ護送された。

以後のアーイシャは、静かに余生を送ったと伝えられる。

ラクダの戦いの後、イラク中部のクーファに拠点を定めたアリーは、アラブ戦士の不満を解消するために現金を配った。

(前任者のウスマーンは、不満を持つアラブ戦士に暗殺されていた)

他方では、ウスマーン殺害後にウマイヤ家の家長を継いだ、シリア総督のムアーウィヤが、シリアのアラブ兵と「ウスマーン殺害の復讐」を誓い合っていた。

アリーはムアーウィヤに書簡を送り、忠誠の誓いを求めたが、ムアーウィヤははねつけた。

するとアリーはシリアへ出陣し、657年7月に両軍はスィッフィーンで激突した。

タバリー(839~923年)の歴史書には、次のように記されている。

「アリー軍が優勢であるのを見たアムル・イブン・アルアースは、
 ムアーウィヤにこう進言した。

 我々は敵にかないません。コーランを掲げて、この書に裁定を
 委ねましょう。」

この奇策を進言したのは、エジプト征服をしたあの老獪なアムルである。

彼は槍先にコーランを掲げ、戦争の中止を提案した。

この策の効果は絶大で、アリーは話し合いに応じた。

しかし、アリー軍の一部は、話し合いを拒否して離脱した。

彼らは「離脱者たち(ハワーリジュ)」と呼ばれ、一派を結成して厳しい批判を続けていく。

アリーは殲滅を試みたが、逆に661年1月にハワーリジュ派の刺客に暗殺された。

皮肉なことに、アリーの死と同時に、第一次内乱が終息へと向かった。


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