ムハンマドの生涯⑦
ヤスリブへ移住し、メディーナに改名される(ヒジュラ)
ムハージルーン・アンサール

(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)

ヤスリブの代表者たちは、「自分達の抗争を和解させるために、ぜひヤスリブに住んでほしい」とムハンマドに伝えた。

ヤスリブにはユダヤ教徒も住んでいて、救世主を求める気分がヤスリブの異教徒の間に起きていた。

ムハンマドは、622年9月24日にヤスリブに到着した。
これが有名な「ヒジュラ(移住・遷都)」である。

この時に、ムハンマドと共にメッカから移住した者を「ムハージルーン」と呼び、ヤスリブでムハンマドを迎えた支持者たちを「アンサール」と呼ぶようになった。

(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)

当時のヤスリブは、ユダヤ教徒やキリスト教徒がおり、唯一神の崇拝に慣れていた。

ヤスリブの人口は2万人で、3分の1がユダヤ教徒だった。

ムハンマドが移住した時期には、ヤスリブの人々は部族同士の争いに明け暮れていた。

そうした状況下で、ヤスリブの人々はムハンマドに、「内戦終結への調停者」になってくれるように求めたのである。

ムハンマドが移住をしたのは、622年9月22日の事だった。

これ以降、ヤスリブは「預言者の町(メディーナ・アンナビー)」と呼ばれるようになり、略して『メディーナ』と言われるようになった。

ムハンマドの調停で、内戦は終結した。

和平文書にムハンマドは、「神の使徒 預言者ムハンマド」と署名した。
このため、文書に署名したメディーナの人々は、結果的にムハンマドを預言者として認める事になった。

ムハンマドはメディーナの中心部に家を建てて、そこの中庭を礼拝所(モスク)にした。

そして、イスラム共同体(ウンマ)を築いていった。

メディーナへの移住(ヒジュラ)は、イスラム史上で特別の意味を持っている。

そこで、622年はイスラム暦(ヒジュラ暦)の紀元元年に選ばれたのである。

(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)

ムハンマドはヒジュラの成功で、発展の礎を得た。

そのため後に、第2代のカリフとなったウマルは、ヒジュラが行われた年のアラビア暦1月1日(西暦622年7月16日)を、イスラーム暦の元年1月1日に定めた。

メディーナに移住したムハンマドは、どの党派にも属さない孤児の土地を買い取り、そこに家を建てた。

この選択は、調停者として生きようとする心遣いが感じられる。

この新居の中庭は、信者達の礼拝所としても用いられた。

ムハンマドがメディーナで最初に行った重要な事は、住人と条約を結んだ事である。

この条約は、「メディーナ憲章」と呼ばれている。

その骨子は、次の3つ。

① ムハージルーンとアンサールは、1つの共同体(ウンマ)を
  形成する

② 信者の間の紛争は、神とムハンマドの調停に委ねられる

③ ユダヤ教徒は、敵対しないかぎり共存が許される

ムハンマドは、ムハージルーンの生活を保護するために、アンサールと擬制の兄弟関係を結ばせた。

そしてアンサールには、兄弟を引き取って扶養させることにした。

ムハンマドは623年には、アブー・バクルの娘アイーシャと結婚した。

アイーシャは、まだ9歳の少女だった。


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