ロバート・ケネディ暗殺事件
サーハンは犯人ではない

(『大統領の検屍官』シリル・ウェクト著から抜粋)

1968年6月5日の午前3時ごろ、私は電話で叩き起こされた。

電話の主は、同僚の医師トーマス・ノグチだった。

彼はカリフォルニア州ロサンゼルスの検屍官をしており、「ロバート・ケネディが撃たれた!」と伝えてきた。

ロバート・ケネディは、1963年11月にJFKが暗殺されると、翌年にニューヨーク州から上院議員に選出された。

68年になると、大統領選に出馬する意向を固めた。

彼は大統領選の(民主党の)予備選挙で有利な状況にあり、「ニクソン共和党候補を倒して大統領になる」と予想されていた。

ノグチは、こう言った。

「まだ死んだとの発表はないが、時間の問題だそうだ。

どうしたものだろう? 君、こっちに来られないか?」

(※ノグチは、ロバート・ケネディがが亡くなれば検屍をすることになる立場の人である。
著者のシリル・ウェクトは検屍官である。)

私は用事があったので断った。

だが、提案を述べた。

「誰か仲介者が必要だな。ピエール・サリンジャーがいい。」

サリンジャーは、カリフォルニアの弁護士で、JFKの親友だった。

JFK暗殺の時は、遺体はダラスから運ばれて、検屍には適さないベセスダ海軍病院で、普通の医師によって検屍されてしまった。

私は、その二の舞にならない事を願ったのだ。

私は、さらに提案した。

「陸軍病理研究所に連絡して、そこから法病理医を呼んで立会人になってもらうのが賢明だ。

君が検屍をし、『法定どおりに検屍するまでは、遺体は運び出させない』と明言するんだ。

それに、検屍のやり方について外部から口を出させてはいけない。」

電話を切りニュースを見ると、「ロバート・ケネディは午前2時半に外科手術に入った」と伝えていた。

医師たちは、「3発の射創から大量に出血している」と報告していた。

3時間後に銃弾の破片は摘出されたが、意識不明の状態だった。

容疑者として逮捕されたのは、24歳のパレスチナ移民サーハン・サーハンだった。

警察は、水玉模様のドレスを着た25歳くらいの黒髪の女性を捜していた。

彼女は、狙撃の直前にサーハンと居るのを目撃されていた。

医師たちはロバート・ケネディは助かると診ていたが、6月6日午前1時44分にロバートは亡くなった。

6月7日にノグチと電話で話すと、「検屍・解剖は無事に終了した」と伝えてきた。

私はロサンゼルスに飛び、医学報告書と写真を検討することになった。

私はノグチのオフィスに行き、検屍写真と報告書に入念に眼をとおした。

期待どおり、彼はすばらしい仕事をしていた。完璧な報告書だった。

ロバート・ケネディは、3発の銃弾を受けていた。

致命傷になったのは、最初の銃弾のようだ。

銃弾は、右耳の後ろ1インチに命中していた。弾道は、わずかに前方向である。

弾は、頭蓋骨に当たった後、こなごなに砕けていた。

ノグチは破片を摘出したものの、あまりに小さすぎて、サーハンの銃から発射されたものか特定できなかった。

ロバートの右耳には刺青のような痕が残っており、それは至近距離で撃たれると見られる痕跡だ。

法医学研究所は赤外線写真を使い、ロバートの髪の毛から大きなすすの固まりを発見した。

これは、銃口が彼の頭部から1~2インチの距離にあった事を意味する。

豚の耳で実験したところ、1.5インチの距離から撃ったものと、ロバートの刺青模様は酷似した。

これらの事実により、『銃は、頭部に非常に近い位置で発射された』と判明した。

他の2つの射創は、共に腋窩付近に命中していた。

最初のは右腋窩の後方から入って、右前肩に抜けていた。

もう1つは、1インチほど下から入り、頸部下方の柔組織で止まっていた。

弾丸は摘出され、警察は「サーハンの銃から発射されたもの」と発表した。

検屍結果を見た後は、私とノグチはアンバサダー・ホテルの犯行現場に赴いた。

ホテルの給仕長であるカール・ユエカーは、起きた事をはっきり目撃していた。

事件当夜、ロバート・ケネディは舞踏室に集まった何千人という支持者の前で、演説をした。

演説を終えると、キッチンの回廊を通って、記者達に用意してある別室へ向かった。

カール・ユエカー

「私は、ロバートとエセル夫人の手を取り、ホテル従業員や支持者で混み合った廊下を進みました。

夫妻は、私の後ろに居ました。

あと15歩で記者会見室に着くという所で、サーハンが私の2~3フィート前に居るのに気付きました。

彼はキッチンの仕事台の角に立っていて、最初は雑用係かと思いました。

彼は銃を持っており、すぐに3発の銃声があがりました。

ロバートが私から離れるのを感じ『撃たれたな』と思いましたが、私は振り返らずにサーハンに飛びかかりました。」

「話を聞くと、サーハンはロバート・ケネディから2フィート以内には居なかったようですが。」と、私は訊いた。

「その通りです。私はずっと2人の間にいたし、サーハンから眼を離しませんでした。」と、ユエカーは答えた。

私とノグチは顔を見合わせた。
法医学的な証拠とまったく食い違っていたからだ。

何十人と居た他の目撃者も、ユエカーの話を支持していた。

何人かは、「サーハンは、ロバートの5フィート以内には近づかなかった」と証言した。

検屍結果では、ロバートの右耳のすぐ後ろから銃は撃たれている。

だが、サーハンはロバートの前に居り、5フィートも離れていた。

我々は、矛盾にぶつかってしまった。

ロバート・ケネディ暗殺から2週間後に、私はサーハンの母親であるメアリー・サーハンから電話をもらった。

彼女は、私に息子の弁護士になるよう頼んできた。

どうやら、JFK暗殺に関する私の仕事ぶりを耳にしたらしい。

彼女は、「あなたなら真実のために闘ってくれるはずだ」と言った。

私が検屍ファイルを調べて、目撃者から話を聞いた限りでは、法廷で勝てる気がした。

法医学的な証拠は、サーハンが犯人ではない事を示していた。

多くの人々が、「あの夜のサーハンは、催眠術のようなものにかかっていた」とも証言していた。

サーハン・サーハンはエルサレム生まれで、1957年に家族と共にアメリカに移住した。

サーハンは大学に入ると、徐々に反イスラエルになっていった。

検察は、「それがサーハンの動機だ」と言っている。
ロバート・ケネディは強力なイスラエル支持者だった。

私は、ミセス・サーハンの依頼について迷った末、断ることにした。

私自身のためよりも、サーハンのためを思って断ったのだ。

私は3年も刑法にはたずさわらず、刑事弁護士の経験が乏しかった。

結局、経験豊富なグラント・クーパーが弁護士になった。

だが驚いたことに、クーパーは法医学的証拠を用いなかった。

トーマス・ノグチが「致命傷を与えた銃弾は、ケネディの頭部から1.5インチ以内で発射された」と宣誓証言したのに、それを使わなかった。

ロバートが撃たれた時、彼の右横には、制服を着た護衛のセイン・セザーが居た。

セザーは政治的には極右で、銃撃の時に銃を抜いた事を認めたが、「銃は発射しなかった」と警察に話した。

驚くなかれ、その銃は調べられなかった。

何ヶ月か後に目撃者たちが「護衛が銃を撃った」と証言し始めると、警察はセザーの銃を調べようとしたが、セザーは「銃は売ってしまった」と答えた。

サーハンは、死刑を宣告されたが、終身刑に減刑された。

いま思うと、サーハンの事件を引き受けなかった事が悔やまれる。

ロバート・ケネディを殺害したのは、サーハンではない。

(2014年12月26日に作成)

(『ゴッドファーザー伝説(ジョゼフ・ボナーノ一代記)』ビル・ボナーノ著から抜粋)

ロバート・ケネディの暗殺は、マフィアが関わったという説がある。

私はその説を支持している。

この暗殺で、第2の狙撃犯がいたと噂されて、その男の名がセイン・ユージン・シーザーだと明らかになった時、私はジャック・ルビーの名前を聞いた時と同じ気持ちになった。

セイン・ユージン・シーザーは、ジョン・アレッシオという長年にわたりロスアンジェルスのマフィアと親しくしている男の、用心棒だった。

アレッシオは、正式なマフィアの一員ではなかったが、チュニジアでドッグ・レース場を経営しており、賭博ビジネスでマフィアと重なっていた。

またジョン・アレッシオは、共和党を支援しており、(共和党の)リチャード・ニクソンの後援者で、裏では(民主党の)リンドン・ジョンソンも後援していた。

私は、カリフォルニア州の刑務所に入っていた時、半年間をジョン・アレッシオと一緒に過ごした。

彼はケネディ政権によって脱税で捕まった過去があり、ケネディ兄弟に非常に腹を立てていた。

私たちは多くの事を話し合ったが、彼はケネディ兄弟を憎んでおり、暗殺された事に満足していた。

重要なのは、ロバート・ケネディが殺されたアンバサダー・ホテルが、兄のジョン・F・ケネディの殺されたディーリー・プラザと同様に、警備がいいかげんだった事である。

ウェイターやメイド、警備員らは、マフィアの支配する労働組合に属している者ばかりだった。

ロバート・ケネディが撃たれた時、セイン・ユージン・シーザーはケネディの後ろに立っていて、犯人とされるサーハン・サーハンの持っていたのと同じタイプの銃を抜いた。

その部屋にいた目撃者は、「ケネディの警備員の1人が銃を抜き、銃撃が始まると発射した」と証言している。


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