新型偵察機A-12の開発②

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

(※この記事は「新型偵察機A-12の開発①」の続きです。
①は「アメリカ史 1950年代」の所にあります。)

ハリー・マーティンは、A-12の燃料担当の空軍軍曹として、エリア51に居た。

1962年4月。
A-12は完成して、エリア51で飛行テストが始まっていた。

ロッキード社のテスト・パイロットであるルイス・シャルクは、62年4月25日にA-12に乗った。

A-12はマッハ3で飛行できることになっていたが、まだ立証されてなかった。

機体は73トンのチタンでできていた。

バッド・ウィーロンは、CIAに入ってまだ2ヵ月の33歳だが、弾道ミサイルの科学者であり、信号情報のアナリストだった。

彼はMITを卒業しており、ケネディ大統領の科学顧問に選ばれて、リチャード・ビッセル(ケネディに解任されたCIAの高官)の後任としてA-12開発計画の責任者に任命された。

A-12に搭載されるジェット・エンジン「J-58」は、プラット・アンド・ホイットニー社が開発していたが、ようやく完成して63年1月にエリア51に届いた。

CIAのパイロットであるケネス・コリンズは、エリア51で働いていた。

ケネスは、表向きはヒューズ・エアクラフト・カンパニーに勤めている事になっており、彼に接近してくる隣人がいればCIAが身元調査をしていた。

ケネス・コリンズはエリア51で、A-12のパイロットになるための訓練を受けていた。

彼は朝鮮戦争に従軍しており、その時は仲間のパイロットが偵察飛行中に死ぬのを何度も見ていた。

1963年の時点で、A-12の開発計画はすでに1年遅れていた。

パイロットを身元調査して雇い入れるだけで18ヵ月、A-12の操縦に慣れさせるのに1年かかっていた。

1963年5月24日、ケネス・コリンズはA-12のエンジン・テストのために乗り込み、エリア51から出発したが、ユタ州ウェンドーヴァーの上空でトラブルが発生し、制御不能になった。

彼は緊急脱出用のリングを引き、座席ごと吹き飛ばされてA-12から離れた。

パラシュートが開いて地面に降下していったが、場所はソルト・レイクの塩原の北あたりだった。

着地してしばらくすると、遠くからトラックが近づいてきた。

ケネスは語る。
「トラックには男が3人乗っていて、地元の牧場主らしかった。
飛行機が墜落した場所を知っているから、そこまで連れていけると言われた。」

しかしケネスは、A-12計画の機密を守るよう命じられており、このような場合にどう対処すべきかも説明を受けていた。

だからこう答えた。
「自分が乗っていたのはF-105戦闘機で、核兵器が搭載されている。」

牧場主たちの表情は一変し、怯えた表情になった。

そして「自分たちはここから離れる。もし送ってほしいなら早く乗れ」と告げた。

ケネスは近くのハイウェイ・パトロール事務所まで送ってもらい、そこからCIAに連絡した。

A-12開発の科学技師のケリー・ジョンソンが、CIA専用機で来てケネスを回収した。

一方アメリカ空軍は、A-12墜落の知らせが届くなり捜索チームを送った。

エリア51の管制室にいたサム・ピッゾは言う。

「皆でトラックや飛行機に乗ってユタに向かった。
A-12の残骸を、ナットやボルト1つまで見つけて回収するためだ。

現地には水道もないので、食料や簡易ベッドも持っていった。」

A-12はチタン製だが、誰かが機体の一部を手に入れてしまえば、それがバレてしまう。

さらに機体全体を覆うレーダー吸収体も明らかになる。

サム・ピッゾは言う。
「100人あまりで墜落現場で2日間作業し、最後には1平方インチ刻みで地面を調べたよ。」

A-12の墜落原因は分からず、ケネス・コリンズは隠している事があると疑われた。

ケネスは言う。

「ケリー・ジョンソンから自白薬を勧められて、チオペンタールナトリウムを注射された。

でも私が話したのは全部、前と同じだった。

自白薬は身体への負担が大きくて、足元がふらついたので、CIAの職員が家まで送ってくれた。」

その後、長期にわたる調査を経て、ピトー管と呼ばれる小さな鉛筆サイズの部品が事故を引き起こしたと結論が出された。

このA-12墜落について、アメリカ政府はマスメディアに「F-105が墜落した」と、嘘の報告をした。

A-12のパイロット訓練には、サバイバル訓練もあった。

これは、A-12が撃墜されて敵地に落ちたのを想定したものだ。

パイロットの1人だったケネス・コリンズは語る。

「人里離れた場所に連れていかれ、中国支配下の敵地にいると告げられた。

地面には電子警報器と爆薬が仕掛けられていた。

泥にまみれながら匍匐前進して30分くらい経った頃、仕掛け線に触れてしまって警報が鳴り出した。

軍服姿の中国人が10人現われ、私はジープまで引きずられて手錠をかけられ、本部に連行された。

そこで裸にされ身体を調べられたが、身体じゅうの穴を調べられた。
屈辱的で心をくじくものだった。

その後は裸のままコンクリートの独房に入れられ、拷問を受けた。

ほどなく幻覚を見るようになったが、数日後に釈放されて訓練は終わった。」

1963年1月、地球の裏側では、その訓練が現実になっていた。

葉常棣というCIAのパイロットが、U-2で中国の核施設を偵察中に撃墜され、拷問を受けていた。

葉常棣は、台湾軍の飛行隊「黒猫中隊」のパイロットで、この中隊はU-2を使ってCIAの代わりに偵察任務をしていた。

台湾の桃園基地と呼ばれる秘密基地を拠点に行われていた。

エリア51の司令官を務めたことのあるヒュー・スレーター大佐は、葉常棣のことをよく憶えている。

「彼は暗号名をテリー・リーといい、桃園基地ではよく一緒にテニスをしたものだ。

あの頃は、U-2はソ連製のSA-2ミサイルの迎撃に対して極めて脆弱になり、誰も操縦したがらなくなっていた。」

撃墜された日、葉常棣は中国上空で9時間にわたる偵察をし、帰途についたところで地対空ミサイルの誘導システムにロックオンされた。

捕まった常棣は、19年も捕虜として暮らし、1982年にひっそりと釈放された。
それ以降はテキサス州ヒューストンで暮らしている。

1965年には、張立義という黒猫中隊のパイロットが、同じくU-2で偵察中に撃墜された。

彼も捕まり、葉常棣と共に収監された。

数々の改良の後、1963年7月にA-12は短時間ながらマッハ3を達成した。

だがマッハ3で10分間の飛行をするようになるのは、さらに7ヵ月かかった。

63年11月22日にケネディ大統領が暗殺されると、大統領に昇格するリンドン・ジョンソンがどういう決定を下すか分からないため、A-12計画はいったん休止となった。

アメリカ空軍はA-12とは別に、「B-70」というマッハ3で飛ぶ爆撃機も開発中だった。

これは1959年の開発当初から、カーティス・ルメイ将軍が熱を注いでいた。

だが60年5月にゲイリー・パワーズの乗ったU-2が撃墜されると、U-2と同じ高度を飛ぶ予定のB-70は脆弱性を露呈した。

カーティス・ルメイは、B-70計画を進めるために、広報活動に力を入れて、国民に必要性を訴えた。

だがケネディ大統領は「B-70は不必要」と評し、議会は発注数を85機から4機にまで減らした。

カーティスは、A-12を開発しているロッキード社のケリー・ジョンソンに会い、交換条件を出した。

「B-70に反対するロビー活動をしないと約束してくれるなら、空軍はA-12の発注書をロッキード社に送る」と。

すでに空軍は、A-12に「ブラックバード」という名前まで用意していた。

国防総省が25機のA-12の発注を上乗せするのに、数ヶ月とかからなかった。

1963年の時点で、国防総省はA-12について、3機の改造ヴァージョンを注文していた。

1機はYF12Aで、250キロトンの核爆弾を2発搭載できるように改造したもの。

2機めは、機上に無人機を搭載できるもの。

3機めは、アメリカが核攻撃をした直後に、そこに行き標的を外していないか確かめる写真を撮るためのもの。

3機めは「RS-71ブラックバード」と名付けられるはずだったが、ジョンソン大統領が演説中に「SR」と逆にアルファベットを言ってしまい、「SR-71ブラックバード」が正式名となった。

(2020年7月16&22日に作成)


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