新型偵察機A-12の開発③

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

ケネディ大統領の暗殺から7日後の1963年11月29日、新しい大統領となったリンドン・ジョンソンは、ジョン・マコーンCIA長官の同席のもと、A-12とエリア51に関するブリーフィングを受けた。

リンドンは、A-12の速度をいたく気に入った。

当時、飛行機の最高速度の記録は、時速2679kmを誇るソ連が保持していると世界中が思っていた。

A-12がその記録を何度も破っていると知ったリンドンは、「公表したい」と言い出した。

しかしA-12を公けにすれば、技術の優位が損なわれてしまう。

このブリーフィングにはマクナマラ国防長官、ラスク国務長官、マクジョージ・バンディ大統領特別補佐官も同席していたが、3人共に公表に賛成した。

3人が賛成したのは、「偵察機の開発にCIAを関わらせていたくない」という空軍の意図を汲んだためだ。

実際、空軍はケネディの死の数週間前に、A-12の存在を公表するよう提案したのだが、ケネディの答えは「時機を待て」だった。

結局、A-12を攻撃型に改造した、空軍のYF-12を最高速度の更新機として公表する事になった。

それも、YF-12の正体を隠すため、架空の名称A-11にして。

1964年2月29日に、リンドン・ジョンソン大統領は記者会見を開いて語った。

「飛行機の最高速度記録は、秘かにくり返し破られている。A-11によって。」

その様子は、ロシア人の鼻を明かしてやれるのが嬉しくてたまらない風だった。

この後、マクナマラ国防長官は「人工衛星と無人機の高度化によって、CIAのA-12はいずれ必要なくなるだろう」と、マコーンCIA長官に告げた。

この頃になると、人工衛星は申し分ない偵察画像を撮れるレベルに到達していた。

だが人工衛星は、固定されたスケジュールでしか動けない。
世界1周に平均90分を要し、どこをいつ通過するか容易に割り出せた。

一方、A-12なら飛行ルートを柔軟に変えられる。

さらにA-12は、2.7万mの上空から76cm四方の地上の様子をフィルムに鮮明にとらえる事ができた。

マコーン(CIA)とマクナマラ(空軍)が対立する中、64年夏にソ連のフルシチョフは「アメリカのU-2偵察機がキューバ上空を飛行したら、必ず撃墜する」と宣言した。

マコーンCIA長官は、A-12を投入する好機と見て、任務を与えるよう大統領に求めた。

これを受けてジョンソン大統領は、『スカイラーク作戦』を許可した。
キューバ上空を偵察飛行する作戦である。

だがA-12は、まだ問題を抱えていた。

A-12には特別設計のJ-58ターボジェット・エンジンが2基、搭載されている。

このエンジンは、1基あたりで遠洋定期船クイーン・メリー号の4基のタービンの合計出力と同等だ。

時速3000kmで飛行するために、J-58エンジンは毎秒280立方mの空気を吸い込んでいる。

あるエンジニアは、これを200万人が同時に空気を吸い込む状況に喩えている。

A-12はある速度で飛行中、どういうわけか空気の流入が遮断され、片方のエンジンが停止してしまう事がある。

そうなると機体はひどく偏揺れし、パイロットはコックピット内のあちこちに身体を叩きつけられながらエンジンを再始動しなければならない。

A-12を開発したロッキード社の、主任テストパイロットであるビル・パークは、この問題を同社の熱力学者ベン・リッチに解決させるよう、ケリー・ジョンソンから指示をうけた。

ベン・リッチのチームは、問題を迂回する仕組みをつくった。

片方のエンジンが止まった時、もう片方のエンジンの出力を落とし、それに続いて両方のエンジンを同時に再始動させるという電子制御システムを開発したのだ。

A-12には、ECM(電子妨害手段)の問題もあった。

キューバに配備されたソ連のレーダー・システムは、A-12を捕捉する可能性が高く、撃墜も可能と見られていた。

だからステルス性を高めるため、ロッキード社のエドワード・ロヴィックのチームが、再びエリア51に招集された。

エドワード・ロヴィックが始めたのは、『プロジェクト・ケンプスター・ラクロワ』として知られるようになるプロジェクトで、高い電荷を帯びた粒子の雲を電子銃で発生させ、その中をA-12が通るものだった。

ガス状の雲が、レーダー波を吸収する。

ところが、その雲から放出される放射線が、パイロットにとって危険すぎると分かった。

結局、A-12の低可視性は充分という話になり、プロジェクトは中止された。

この後、CIAはエリア51にECM担当の部署を設けることを決め、シルヴェニア社からスタッフが派遣された。

シルヴェニア社は、CIAの極秘プロジェクトに参加していたが、電球の製造で知られていた。

ECM担当の職員だったケン・スワンソンは言う。

「最初の電波妨害システムはレッド・ドッグと呼ばれ、後にブルー・ドッグになった」

レッド・ドッグ・システムは、追尾してくるミサイルを感知し、電子パルスを用いて妨害する仕組みになっていた。

A-12のこうしたテストは、国防総省の特殊活動部の部長であるレッドフォード准将が監督していた。

ベトナム戦争が本格化すると、マクナマラ国防長官はA-12に対する方針を180度転換した。
北ベトナムの偵察に使えると考えたのだ。

1960年代の中頃になると、エリア51の周辺では、テスト飛行を繰り返すA-12がUFOと間違えられ、UFO目撃件数が激増した。

1962年4月30日からA-12はテスト飛行を始めたが、その5日後からUFO目撃報告が増えた。

62年4月30日は、同じ空域でNASAの「X-15ロケット機」のテストも行われていた。

X-15ロケット機は、宇宙のきわまで行ける最初の有人機で、最高高度は10万8千mだった。

X-15は機密プログラムではなかったため、NASAは飛行中に撮った写真をよく公表していたが、その日の写真にはA-12が写っており、気付かずに公表してしまった。

するとマスコミはUFOだと断じた。

A-12がUFOと人々に思われてしまうのは、1950年代のU-2の時と同じだった。

A-12はマッハ3の速度を出せたが、当時では前代未聞の速さだった。

さらに日没直後だと、上空では太陽がまだA-12を照らしており、地上から見るとUFOに見える。

当時のエリア51の司令官だったヒュー・スレーター大佐は、こう証言する。

「民間機のパイロットがA-12を目撃してFAA(連邦航空局)に報告すると、着陸した空港にFBI局員が待ち構えて、乗客全員に情報漏洩防止の書類に署名させていた。」

エリア51の基地司令官は空軍将校に与えられたが、給与の出所はCIAだった。

1965年に、このポストにヒュー・スレーターが就いた。

ヒューは、第二次大戦中はパイロットとしてドイツ軍と戦い、戦後は台湾でU-2偵察機の飛行隊「黒猫中隊」の指揮官を務めていた。

ヒューは、レッドフォード准将と共にしょっちゅうワシントンを訪れ、極秘計画を審査する「303委員会」でA-12の報告をした。

1966年5月10日に、CBSキャスターのウォルター・クロンカイトはUFOの特別番組の司会をし、「CIAはUFOの隠蔽工作に関与している」と告げた。

CIAは世界各地のUFO情報を集めていたが、興味がないと嘘をつき続けていた。

この番組では、1953年のロバートソン委員会の報告も取り上げた。

ロバートソン博士が出演し、彼の名前が冠されているUFO委員会は「CIAの後援で1952年に発足した」と暴露した。

CIAと米軍は、国民に嘘をつき続けてきた。

ジェット機の幕開けに、アメリカ陸軍航空隊が行ったのも、その一例だ。

1942年、ジェット・エンジンが開発されて間もない頃、陸軍航空隊は機密にしておきたいと考えた。

ジェット・エンジンが登場するまで、飛行機はプロペラで飛んでいた。

陸軍航空隊は、ジェット機(ベルXP-59A)のテスト飛行をする際、機首にダミーのプロペラを付けて誤魔化した。

CIA次官のリチャード・ヘルムズは、エリア51の新しいボスとなった。

彼は、A-12開発計画の責任者であるバッド・ウィーロンと緊密な連携をとって、A-12の計画を進めた。

バッド・ウィーロンは、4年契約でCIAに入局し、その期間を満了するとCIAを去っている。

リチャード・ヘルムズは、若い頃はUP通信社の記者だった。

1936年に23歳だった彼は、ベルリン五輪を取材中、ヒトラーのインタビューに招かれスクープをものにした。

それから6年後、OSS(CIAの前身)に雇われて、ヒトラーの配下たちを秘かに探ることになった。

第二次大戦が終わるとリチャードは、ナチスの科学者たちを見つけてアメリカに連行する、『ペーパークリップ作戦』で重要な役割を果たした。

リチャード・ヘルムズは、1975年にCIAの行っていた『MKウルトラ』という人体実験について話すため、元CIA長官として連邦議会の証言台に立っている。

この時には、「1973年にすべてのMKウルトラ資料を破棄するよう命じた」と証言した。

1965年12月に、ついにA-12の作戦運用が可能となり、エリア51で祝典が行われた。

CIA最高幹部のワーナー・ワイスが、パーティの食材を手配した。

リチャード・ヘルムズは、1966年6月にCIA長官に就いたが、A-12のロビー活動をくり広げた。

8月に入ると、ジョンソン大統領の立ち会いのもと、A-12配備の是非を問う投票が行われた。

反対が過半数を占め、大統領もこれを支持した。

1967年1月5日、ウォルト・レイはA-12のテスト飛行をしたが、エンジンが止まり脱出に失敗して墜落死してしまった。

ただちにヒュー・スレーターは、ウォルトの遺体と機体の残骸を見つけるよう命じた。

エリア51とネリス空軍基地から、捜索の飛行機が派遣された。

国防総省は、偵察機の開発を独占したいため、この事故死を強調し、ジョンソン大統領に「A-12計画を廃止するよう」進言した。

翌日にヒューはワシントンに呼び出され、303委員会でこう告げられた。

「68年1月1日をもってA-12計画は打ち切りにする」

3ヵ月後、ヒュー・スレーターはA-12とのお別れ飛行に出掛けた。

A-12に乗り込み、エリア51から出発してマッハ3で飛行し、23分後には1100km離れたモンタナ州ビリングスまで来ていた。

この速度になると、景色を愉しむことなど出来ない。
機器の1つ1つに絶えず注意しなければならないからだ。

ヒューはカナダとの国境まで行って旋回し、カリフォルニア州に向かった。

そこで高度を落とし、KC-135給油機とおち合う事になった。

カリフォルニア州ユバ郡にあるビール空軍基地から給油機が来たが、空中給油はA-12にとって危険な作業の1つである。

時速560~720kmにスピードを落とす必要があるが、減速すれば安定性を保つのが難しくなる。

KC-135の方も、最高速度で付いていかなければならない。

その空中給油中に、ポール・バカリス大佐から無線連絡が入った。

ポールは、CIAの特殊活動部の部長を、レッドフォード准将から引き継いでいた。

ポールは告げた。
「国防総省から緊急連絡が入ったので、ただちにエリア51に帰還するように」

「給油中だ」

「海へ出て、燃料を捨てて、帰還するんだ」

ヒュー・スレーターは4万ポンド(18200kg)の燃料を放出して捨て、それが大気圏の中で気化するのを見た。

燃料が多すぎれば、着陸時にブレーキが損傷しかねない。

エリア51に戻ると、ポール・バカリスが満面の笑みで待っていた。
そして言った。

「ジョンソン大統領がA-12にゴーサインを出した」

(※「Aー12が嘉手納基地に配備される ブラックシールド作戦」に続く)

(2020年7月22~23&25日に作成)


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