(『そうだったのか!現代史2』池上彰著から抜粋)
1949年9月3日に、アメリカ軍は日本近海で、大気中から高濃度の放射能を検出した。
アメリカは、「これはソ連が核実験をしたからだ」と判断した。
それまでアメリカは、「ソ連になど原爆は作れない」と高をくくっていた。
アメリカの核兵器の独占は、わずか4年であっさり崩れた。
ソ連が開発した原爆は、アメリカのものと酷似していた。
実は、ソ連のスパイがアメリカの設計図を写し取っていた。
1950年2月に、イギリスでクラウス・フックスがスパイ容疑で逮捕され、この事実が明るみに出た。
フックスは、ドイツ生まれで、イギリスに亡命した。
アメリカの原爆開発は、イギリスと協力して行う協定が結ばれており、フックスはイギリスから派遣されていた。
フックスは原爆開発の情報をソ連に流し、そのためソ連の開発は一気に進み、最初からプルトニウム型の開発を行えた。
ソ連が原爆を開発したのを見たトルーマン大統領は、1950年1月に、原爆よりもさらに威力のある『水爆』の開発に、ゴーサインを出した。
水爆は、水素の原子核を融合させることで、莫大なエネルギーを取り出す。
このため、『水素爆弾(水爆)』と呼ばれる。
太陽は、水素の核融合で高温と光を発している。
この原理を使おうとしたのである。
水爆開発の責任者になったのは、エドワード・テラーである。
彼はハンガリー生まれのユダヤ人で、「水爆の父」と呼ばれた。
開発には、生まれて間もないコンピュータが利用された。
水爆は、起爆剤として原爆を使う。
1952年11月1日に、初の水爆の実験が行われた。
場所は太平洋にあるエルゲラブ島で、広島型原爆の1千倍の威力だったため、エルゲラブ島は一瞬で消滅した。
しかしソ連も、わずか9ヵ月後の53年8月12日に、水爆実験に成功した。
こうなると、後は「数で勝負」になった。
そして、核兵器の大量生産が始まった。
(2013.12.21.作成)