(『そうだったのか!現代史2』池上彰著から抜粋)
1954年3月1日に、ビキニ環礁でアメリカの水爆の実験が行われた。
そして、東に160kmも離れた場所でマグロ漁をしていた、日本の漁船「第五福竜丸」が被爆した。
空から白い粉(死の灰)が降ってきたのである。
第五福竜丸の乗組員23人は、体調が悪化し、寄港後はそのまま入院した。
9月23日には1人が死亡した。
この実験では、東に190kmの所にあるロンゲラップ島の住民も、被爆した。
第五福竜丸が持ち帰ったマグロからは、高い放射能が検出された。
他の漁船の魚からも検出されたので、日本中で魚が売れなくなった。
この時期は、アメリカとソ連の核実験が、頻繁に実施された。
大気中の放射能は、雨と共に地上に降ってくる。
日本の雨からも放射能が検出され、「傘をささないと、頭がはげる」と言われた。
日本中で核兵器開発への怒りが燃え上がり、1954年5月には東京都杉並区の主婦たちが「原水爆禁止の署名運動」を始めた。
翌年8月までに、署名は3000万人を突破した。
1955年8月には、「第1回の水爆禁止の世界大会」が広島で開催された。
この大会をきっかけにして、『原水爆禁止の日本協議会(原水協)』が結成された。
これ以降、毎年夏に、世界大会が開かれるようになった。
ところが、政治が絡んできて、内部で対立が生じた。
最初の対立は、1960年の日米安保改定への方針をめぐるものであった。
原水協が組織として「安保反対」を打ち出したのに対して、自民党や民社党の人たちが反発し、彼らは脱退して『核禁会議』を結成した。
さらに1963年には、ソ連の核実験に支持を表明する共産党の人々と、核実験すべてに反対する社会党の人々が、対立した。
社会党の人々は脱退し、65年に『原水禁』を結成した。
こうして、原水爆禁止を求める日本の運動は、3つに分裂してしまった。
(2013.12.26.作成)