水爆を武器にソ連を脅すが、ソ連も開発するとビビッてしまい、
核兵器の増産や核シェルターの建設をする

(『そうだったのか!現代史2』から抜粋)

水爆の実験が成功した直後に、ドワイト・アイゼンハワー大統領は「核兵器も、他の兵器と同じように使用可能なものだ」と決めた。

そしてソ連に対して、「ソ連の攻撃に対しては、核兵器で報復することがあり得る」とのメッセージを送った。

1954年に米空軍司令部は、『爆撃機を大量に動員して、ソ連や東欧を核攻撃する計画』を立てた。

米ソはお互いに疑心暗鬼にかられてしまい、どんどん核兵器を生産していった。

アメリカは、ソ連が核ミサイルで攻撃してきても大丈夫なように、

「核ミサイルの発射装置を、全米各地に点在させる」

「核ミサイルを積んだ爆撃機を、24時間つねに空中に待機させる」

「世界各地の海に、核ミサイルを積んだ潜水艦を配置する」

といった行動を採った。

核兵器の開発競争をしているので、当然ながら「核戦争の危機」も訪れた。

1962年の「キューバ危機」が一番有名である。

アメリカは、朝鮮戦争の時も、べトナム戦争の時も、核兵器の使用を検討・計画した。

アメリカでは、核戦争への恐怖から、「核シェルター」が現れた。

都市の中に作ったり、個人用の核シェルターを売り出したりした。

1960年には、アメリカは1万発もの戦術核兵器を保有するまでになった。

多くは西ヨーロッパに運ばれ、ソ連が攻めてきた時に使えるように準備していた。

(2013.12.26.作成)


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