(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺などが解明されるにつれて、人種差別の禁止を求める声が高まっていった。
1948年12月には、『世界人権宣言』が採択された。
ハリー・トルーマン大統領は1948年7月に、公務員や軍での人種差別を禁じた。
第二次世界大戦に従軍した黒人たちは、反ファシズムの戦争を通して自覚を高めていた。
朝鮮戦争では、軍での人種隔離も撤廃された。
軍需工場では、行政命令によって差別は禁止されていた。
1950年代になると、芸術・学問・スポーツの分野では、著名な黒人が出るようになる。
1950年に最高裁は、「鉄道の食堂車における人種差別を禁ずる」との判決を出した。
さらに最高裁は54年に、「公立学校での人種分離は違憲とする」との画期的な判決をした。
これに対して南部の白人たちは強い反発をし、南部選出議員の79%が判決を無効にすると誓う『南部宣言』を発表した。
そして南部の行政当局は、判決の実施を先延ばしにした。
1957年に、アーカンソー州知事のフォーバスが、黒人の入学に反対して、白人の暴動を先導した。
(ジャズ・ミュージシャンのチャールズ・ミンガスは、フォーバスの行為を指弾する曲を発表している)
(2013.12.26.作成)