(『CIA秘録』ティム・ワイナー著から抜粋)
1950年になると、トルーマン大統領は「失敗続きのCIAを救ってほしい」と、ベデル・スミスに声を掛けた。
(ここまでのCIAの失敗については、『アメリカ史 第二次大戦の終結後』に書いてあります)
朝鮮戦争が始まると、依頼は命令に変わり、ベデル・スミスは再びCIA長官となった。
彼は50年10月に就任すると、フランク・ウィズナーが無秩序に広げていた秘密作戦に苦情を言い続けた。
フランク・ウィズナーは、CIAの秘密工作部門のトップだったが、国務省と国防総省には報告を上げていたが、CIA長官には上げていなかった。
ベデル・スミスは激しく怒り、「海賊行為が通用する時代は終わった」とウィズナーに告げた。
ベデル・スミスは、分析・諜報部門の立て直しに取り組んだ。
トルーマン大統領は何よりも、朝鮮戦争に中国が参入してくるかどうかを知りたがっていた。
ダグラス・マッカーサー将軍は、「中国が参戦することは決してない」と言い張っていた。
CIAは、中国で何が起きているかをほとんど知らなかった。
1949年10月に毛沢東が中華人民共和国を樹立するまでに、中国にいるアメリカ・スパイは香港か台湾に逃亡していた。
また、マッカーサーはCIAが嫌いで、極東ではCIAの活動を禁じていた。
CIAがトルーマンに提出する中国の報告は、90%は国務省ファイルの焼き直しだった。
CIAの味方は、腐敗した信頼できない2人の指導者(李承晩と蒋介石)の諜報機関だった。
第二次大戦の末期~1949年末まで、極東で良質の情報を得ていたのは、アメリカの通信傍受網だった。
交信される電報や声明を傍受し、暗号解読もできていた。
しかし、朝鮮戦争の直前に、突如としてうまく行かなくなった。
それは、ソ連のスパイがアメリカの暗号解読の中枢にもぐり込んだためだった。
そのスパイは、ウィリアム・ウォルフ・ワイスバンドという男で、1930年代にソ連のスパイになっていた。
ベデル・スミスは重大な問題が発生したと認め、ホワイトハウスに注意を喚起した。
その結果が、国家安全保障局(NSA)の創設だった。
NSAは、やがてCIAをしのぐ規模と権力を持つようになる。
トルーマン大統領は1950年10月11日に、マッカーサー将軍と会談するために、ウェーク島に向けて出発した。
CIAは大統領に対して、「中国が朝鮮戦争に全面介入する兆候は見られない」と報告していた。
CIA東京支局からは中国の介入を示唆する報告が入っていたが、無視された。
50年10月18日、マッカーサーの軍が中国国境に向けて北上を続ける中、CIAは「ソ連の北朝鮮をめぐる冒険は失敗に終わった」と報告した。
だが、中国軍30万人が参戦してきて、アメリカ軍は危うく海に追い落とされるところとなった。
ベデル・スミスCIA長官は、驚愕した。
CIAは過去1年間に、ソ連の原爆開発、朝鮮戦争、中国の介入など、ことごとく読み誤ってきていた。
12月になると、トルーマン大統領は非常事態宣言をし、アイゼンハワー将軍に現役復帰を呼びかけた。
ベデル・スミスは、CIAを諜報機関に変えるため(戻すため)、フランク・ウィズナーを抑えられる人間を探すことにした。
そして51年1月4日に、アレン・ダレスをCIAの計画担当副長官(実際の仕事は秘密工作本部長)に任命した。
だが、この人事は失敗だった事が、すぐに明らかになる。
ウィズナーは、秘密工作部門をどんどん拡大させており、毎月に何百人という大学生を雇い入れて、訓練所に数週間入れて海外に送り出していた。
ビル・ジャクソンCIA副長官は、「CIAの活動は、どうしようもない混乱状態にある」と言って、辞任してしまった。
ベデル・スミスは、ダレスを副長官に、ウィズナーを秘密工作本部長に、昇進させる他なかった。
ダレスとウィズナーが提案したCIA予算を見た時、ベデル・スミスは爆発した。
それは5億8700万ドルという、1948年予算に比べて11倍の額だった。
さらに4億ドルは、秘密工作のためのものだった。
ベデル・スミスは、諜報がおろそかになると危惧し、「ダレスとウィズナーは自分に何か隠しているのではないか」と疑い始めた。
2人に対して「誤魔化したりせず、準軍事活動の詳細な説明を残せ」と命じたが、2人は1度も従わなかった。
朝鮮戦争に関するCIAの歴史文書は、ベデル・スミスの懸念が当たった事を明らかにしている。
CIAの準軍事作戦は、効果がなく、何千人もが犠牲になった。
「費やされた時間と費用は、得られた成果と比べると途方もなく不釣合いだった」と、CIAは結論している。
香港支局長だったピーター・シケルは、こう語る。
「あれは、自滅的で無責任な作戦だった。」
だが、北朝鮮に対する作戦は1960年代まで続けられ、多数の中国人や北朝鮮人の工作員が死に追いやられた。
朝鮮戦争の初期に、大学を出たばかりのドナルド・グレッグは、CIAに雇われてサイパン島に派遣された。
グレッグは、CIAの極東部門で出世していき、CIAソウル支局長→ソウル駐在アメリカ大使→父ブッシュの補佐官となっていく。
フランク・ウィズナーはサイパン島に、2800万ドルをかけて秘密工作の基地を建設中だった。
サイパン島は、朝鮮・中国・チベット・ベトナムでCIAが行う作戦のための、訓練キャンプだった。
ドナルド・グレッグは、難民キャンプから無理矢理に連れてこられた農家出身の朝鮮の若者を、訓練した。
アメリカの諜報工作員に仕立てようとしたのである。
グレッグは言う。
「CIAは、OSSの足跡を追いかけていた。
だが、自分たちが何をしているのか分かっておらず、おかしな
人達を訓練しては北朝鮮や中国にパラシュート降下させていた。
送り込んだ者からの連絡はなかった。
ヨーロッパでもアジアでも、CIAの実績はお粗末だった。
評判は良かったが、実態はひどいものだった。」
1952年2~4月に、釜山湾にある影島(ヨンド島)に、1200人以上の北朝鮮亡命者が集められた。
ハンス・トフテ(元OSS)が指揮をとり、3つのゲリラ部隊を作った。
部隊には、3つの任務が与えられた。
情報収集、ゲリラ戦、撃墜されたアメリカ人パイロットの脱出の支援、である。
しかし、投入された3部隊は、半年後には殺されるか捕まるか行方不明になった。
1952年春~夏には、1500人以上の北朝鮮亡命者が送りこまれた。
彼らは情報を無線で送ってきたが、ソウル支局長のジョン・リモンド・ハートが調べた結果、ほとんどが偽情報だと判明した。
だが、CIAの職員達は誰一人として朝鮮語を話せず、朝鮮人工作員に依存するしかなかった。
朝鮮戦争が終わってずいぶん経ってから、『自分たちが戦争中に集めた情報は、ほとんど全てが偽情報だった』と、CIAは結論づけた。
情報本部次長のロフタス・ベッカーは、1952年11月にアジア全域のCIA支局を視察したが、帰国後に辞表を提出した。
彼は、「状況は絶望的だ。極東におけるCIAの情報収集能力は、無きに等しい。」と伝えた。
だが、アレン・ダレスCIA副長官は、議会に対して「上手く行っている」と説明した。
失敗を成功と言いくるめる能力が、CIAの伝統になりつつあった。
現在に至っても、CIAには教訓を学び取る手続きはない。
北朝鮮に諜報活動の浸透ができない事は、現在も続いている。
CIAは1951年には、中国への工作を始めた。
CIAは、「100万人に上る国民党ゲリラが、中国国内でCIAの支援を待っている」と信じていた。
「毛沢東と戦うことは賢明なのか」との疑問を、CIAはじっくりと考えなかった。
ダレスとウィズナーは、政府の承認を得ずに、勝手に作戦を行った。
CIAは、何百人もの中国人工作員を、当てずっぽうに中国にパラシュート降下させた。
工作員には、「自力で集落にたどり着け」と命令した。
工作員が行方不明になると、彼らは忘れ去られた。
中国北西部のイスラム教徒を利用する作戦も立てられ、中国人工作員が送り込まれた。
マイケル・コウはCIAに雇われ、台湾にCIAが作ったフロント企業「ウェスタン・エンタプライジズ」の社員となった人だ。
コウは言う。
「信じられないほどのカネの無駄使いだった。
CIAは、(台湾に亡命した)国民党からインチキ情報を
売りつけられていた。
その1つが、『中国内部には大きな抵抗勢力がある』だった。
作戦すべてが、時間の浪費だった。」
CIAは、「中国内に第三の勢力がある」と考え、1951年4月~52年末までに1億ドルを使って、20万人分の武器・弾薬を購入した。
だが第三勢力は見つからず、半分の武器は、沖縄に足場をもつ中国人難民グループに渡された。
朝鮮戦争におけるCIAの最後の戦場は、ビルマ(現ミャンマー)だった。
国民党の李弥将軍と1500人の配下が、ビルマ北部に足止めされており、武器とカネを求めていた。
CIAは、国民党の兵士をタイに送り、訓練させて、ビルマ北部にパラシュート降下させた。
だが、李弥軍が国境を越えて中国に入ると、毛沢東の軍に完全に撃破された。
CIAは追加の武器をビルマに投下したが、李弥軍は戦おうとせず、『黄金の三角地帯』として知られる山間部に定住して、アヘン栽培を始めた。
そして李弥一派は、武器の矛先をビルマ政府に向けるようになった。
ビルマ政府は、麻薬密造の背後にアメリカがいると疑い、アメリカとの関係を断絶した。
この時から、ビルマは半世紀にわたって西側から孤立し、抑圧的な政権を作っていく。
タイでは、CIA要員が李弥のヘロイン密売に絡んでいた。
1952年には、アメリカ人が麻薬取引に関わって殺された。
朝鮮戦争が休戦してからも、CIAは失敗を上塗りした。
休戦して間もなく、李承晩・韓国大統領の乗るヨットが、CIAの訓練基地があるヨンド島の近くに来た。
李承晩は、友人たちとパーティをしていた。
訓練所の人々はヨットの通過を知らされておらず、警備員は発砲した。
奇跡的に誰も怪我をしなかったが、李承晩は怒り、アメリカ大使館に「CIAの準軍事グループを、72時間以内に国外に撤収させろ」と伝えた。
この事件によって、CIAの対北朝鮮の工作は、一からやり直さなければならなくなった。
CIAは、朝鮮戦争を意図的に忘れようとした。
1億5200万ドルの無駄使いは、会計簿の上ではうまく帳尻を合わせられた。
どれ位の人命が失われたのかという問題は、問われもせず、答えも出されなかった。
(2015年1月24日に作成)