(『CIA秘録』ティム・ワイナー著から抜粋)
CIAは、日本でのアメリカ軍の占領統治が終わると、日本で独自の地位を築きにかかった。
初めての国会議員選挙に出馬しようとしている若手政治家たちに目を向け、彼らを支援し始めた。
NSC(国家安全保障会議)に対するCIAの報告書では、次のような秘密工作が行われたと書かれている。
①日本政府と日本人に、駐屯するアメリカ軍を受容する態度と責任感を育む工作
②労働者と労働組合を対象とする工作
③重要な人物を操ることを目指す数々の工作
CIAが政治工作を進める上で使いこなしたのが、現金であった。
CIAは1948年以降、外国の政治家をカネで買収し続けた。
そして、有力国の中で将来の指導者をCIAが選べたのは、日本が最初だった。
岸信介は、児玉誉士夫と共にA級戦犯の容疑者として、巣鴨拘置所に収監されていた。
東条英機らA級戦犯の死刑執行がされた翌日に、岸は児玉らと共に釈放された。
岸は釈放後にCIAの援助を受け、支配政党のトップになって首相の座まで上った。
岸信介は保守派の指導者で、国会議員になって4年も経たないうちに首相となり、その後に半世紀近く続く政権党(自民党)を築いていく。
彼は戦犯容疑者として収監されていた間も、アメリカ上層部に味方がいた。
その1人は、駐日大使だったジョゼフ・グルーである。
グルーは、日米開戦後に収容所に入れられたが、閣僚だった岸が収容所から出してやり、一緒にゴルフまでしていた。
岸が巣鴨拘置所を出て数日後に、グルーは『自由ヨーロッパ全国委員会』の初代委員長になった。
この委員会は、「自由ヨーロッパ放送」などの宣伝戦争を支援するために、CIAが設けた偽装組織だった。
岸信介は出所後に、ニューズウィーク誌の東京支局長から英語のレッスンを受け、同誌の外信部長であるハリー・カーンを通してアメリカの政治家に知己を得た。
ハリー・カーンは、アレン・ダレスCIA長官の親友で、後には東京でCIAの仲介役を務めた。
岸は、アメリカ要人との関係を、大事に育んだ。
彼は悪評も高く、当初は警察が尾行するのが常だった。
1954年5月に、岸は東京の歌舞伎座で、一種の政治的なデビューを果たした。
元OSSでアメリカ大使館の情報宣伝担当官であるビル・ハッチンスンを招待し、日本のエリートである友人たちを紹介したのである。
すでに岸は、1年ほどの間、隠密にCIAや国務省の者とハッチンスン家の居間で会っていた。
ハッチンスンは、「岸はアメリカ政府の支援を求めていた」と回想する。
岸はアメリカ人に、「自分の戦略は、自由党をひっくり返して名前を改め、立て直して自分が動かすことだ」と語っていた。
岸がやがてリーダーとなる新党の『自由民主党』は、自由主義的でも民主主義的でもなかった。
この党は、大日本帝国で活躍した右派の封建的な者を、多くメンバーとしていた。
岸は、当初は先輩に首相の地位を譲っていたが、やがて首相になる出番がめぐってきた。
首相になった彼は、「日本の外交政策を、アメリカの望むものに変えていく」と約束した。
岸は、アメリカの要望に応えるかわりに、政治的な支援を要求した。
ジョン・フォスター・ダレス国務長官は、1955年8月に岸と会い、こう言った。
「もし日本の保守派が一致して、共産主義とのアメリカの戦いを助けるならば、支援を期待してもよろしい。」
岸信介は、アメリカ大使館の高官サム・バーガーに、「自分とアメリカの連絡役には、若手で日本では知られていない下級の人間が最適だ」と伝えた。
連絡役は、CIAのクライド・マカボイが担当する事になった。
マカボイが岸に引き合わされた時、CIAと外国の指導者との最も強力な関係の1つが、誕生した。
CIAと自民党の間で行われた最も重要なやり取りは、『情報とカネの交換』だった。
CIAはカネで自民党を支援し、政権内部に情報提供者を確保した。
アメリカは、30年後に国会議員や閣僚になりそうな若者と、金銭関係を確立した。
彼らは力を合わせて自民党を強化し、社会党や労働組合を転覆しようとした。
カネを渡す場合は、現金を渡すのではなく、信用できるアメリカ人のビジネスマンを仲介役にした。
こうした仲介役には、ロッキード社の役員もいた。
同社は、岸が強化を目指す自衛隊に、航空機を売っていた。
1955年11月に、『自由民主党』が結成されて、日本の保守勢力は統合された。
岸は幹事長に就いたが、岸に協力する議員を増やす工作を、CIAが始めた。
その後に岸は首相となり、CIAと二人三脚で日米の新たな安全保障条約を作り上げていく。
岸を担当していたCIAのクライド・マカボイは、日本の外交政策に影響を及ぼした。
1957年6月には、岸首相はアメリカを訪問した。
ニクソン副大統領は上院で、「岸はアメリカの偉大で忠実な友人だ」と紹介した。
岸信介は、マッカーサー元帥の甥にあたる新しい駐日大使、ダグラス・マッカーサー2世に、こう言った。
「もしアメリカが私の権力固めを支持してくれるなら、新しい安保条約を通過させ、左翼勢力の台頭も抑え込んでみせる。」
そして岸は、CIAから内々で支払いを受けるよりも、永続的な財源による支援を希望した。
マッカーサー大使もフォスター・ダレスも、これに同意した。
アイゼンハワー大統領も、「日本が安保条約を支持するためには、岸を財政的に支援する必要がある」と判断していた。
アイゼンハワーは、CIAが自民党の主要議員に引き続き金銭提供することを、承認した。
この金銭提供は、少なくとも15年にわたり、4人の大統領の下で日本に流れ、自民党の一党支配の強化に役立った。
アメリカ国務省は、2006年7月に、『CIAと日本政府要人との間に、秘密の関係があったこと』を認めた。
国務省の声明は、CIAが現時点で認めうるギリギリの内容が書かれている。
声明によると、1958~68年まで、アメリカ政府は日本の政治に影響を与えようとする、4件の秘密計画を承認した。
アメリカは、日本の左翼勢力が中立主義を強化したり、日本で左翼政権が誕生することを、懸念したのである。
1件目の秘密工作は、次のものだ。
アイゼンハワー政権は、1958年5月の衆議院選挙において、『新米保守の政治家に、CIAが秘密資金とアドバイスを提供すること』を承認した。
援助を受けた候補者には、「アメリカの実業家からの援助だ」と伝えられた。
「重要な政治家への資金援助は、1960年代の選挙でも継続された」と、国務省声明は述べている。
1964年になると、日本の政治が落ち着きを増した(親米路線が定着した)と判断され、政治家への秘密の援助が必要なくなったと確信できるようになった。
さらに、秘密援助が暴露された時のリスクが大きい、との意見が多数となった。
そこで、援助は段階的に廃止された。
2件目の秘密工作は、『極端に左翼的な政治家が当選する可能性を減らすこと』を狙ったものだった。
1959年にアイゼンハワー政権は、親米的な野党が出現するのを求めて、穏健派の左翼勢力を野党から切り離すことを目指す、秘密工作を承認した。
この工作は資金が限られていて、1960年代の前半に毎年7.5万ドルの予算で続けられた。
3件目は、『日本社会に働きかけて、極左の影響を拒絶させる』工作だった。
宣伝と社会行動に予算は等分されて、ジョンソン政権を通して継続された。
1964年の予算は、45万ドルだった。
4件目は、声明では明らかにされていない。
CIAや国務省やNSCの関係者への取材によると、これは『岸信介に対する支援』だった。
岸と同じくCIAの協力者となった者に、賀屋興宣がいる。
彼は戦犯として有罪になり、終身刑の判決を受けた。
だが1955年に保釈され、58年に赦免された。
その後、岸に最も近い顧問となり、自民党・外交調査会の主要メンバーになった。
賀屋興宣は、1958年に国会議員に選出されるが、その直前もしくは直後からCIAの協力者となった。
59年2月6日には、CIAの本部に行ってダレス長官と会談している。
ここで賀屋は、「自分が関わっている外交調査会と、CIAが情報を共有するために、正式な取り決めを結びたい」と要請した。
会談の議事録は、「破壊活動の防止についてCIAと日本側が協力することは、極めて望ましいので、合意した」と書いている。
アレン・ダレスは、賀屋を自分の工作員と見ていた。
賀屋とCIAの関係は、賀屋が佐藤栄作・首相の主要な助言者だった1968年に、頂点に達した。
その年の日本では、沖縄のアメリカ軍基地が大きな問題になっていた。
アメリカ軍は、ベトナム爆撃の後方基地として沖縄を利用しており、『核兵器の貯蔵場所』にもなっていた。
沖縄で1968年10月10日に予定される地方選挙では、野党の政治家が「アメリカを沖縄から撤退させる」と主張していた。
CIAは、選挙を自民党に有利にしようと考え、秘密工作を展開した。
賀屋はその活動で重要な役割を果たしたが、その試みはわずかな差で失敗した。
日本人はやがて、CIAの支援で作られる政治システムを、「構造汚職」と呼ぶようになった。
だが、CIAの買収工作は、1970年代まで続いた。
CIAの東京支局長だったホーレス・フェルドマンは、こう述懐する。
「我々は、占領中の日本を動かした。
そして占領後も、別のやり方で長く動かしてきた。」
(2015年1月25日に作成)