米政府は秘密裏にUFO調査を進める
プロジェクト・ブルーブックなど

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

そもそもアメリカでのUFO熱は、1947年6月24日に始まった。

この日、ケネス・アーノルドという救助パイロットが墜落した飛行機を探していたところ、9つの空飛ぶ円盤がワシントン上空を猛スピードで進むのを目撃したのだ。

それから2週間後には、ロズウェルで円盤の墜落事故が起きた。

アメリカ国民は政府に回答を求めたが、1997年に機密解除されたCIA文書によれば、空軍は2つのプロジェクトで対処した。

1つは『プロジェクト・ソーサー』、もう1つは『プロジェクト・グラッジ』だ。

『プロジェクト・ソーサー』は、UFOを秘密裏に調査するもので、何百人ものスタッフが充てられた。

『プロジェクト・グラッジ』は、UFOを空軍高官がテレビやラジオで否定するもので、星や巨大な雹の見間違えだと力説した。

UFOの目撃情報が減らないので、CIAは不承不承UFO情報を集める秘密の部署を設けた。

アレン・ダレスCIA長官は、OSS時代の同僚だったトドス・オダレンコを責任者にした。

ところがオダレンコはこの仕事に不熱心だった。

元々CIAにはUFOの機密ファイルがあり、ダレス長官は前任者のベデルスミスから受け継いでいた。

ベデルスミスは、CIA長官になる前は、ペーパークリップ作戦(ナチスの科学者を見つけてアメリカに協力させる作戦)に関わっていたし、ロズウェル事件の時は駐ソ大使だった。

ロズウェル事件で入手したUFOの残骸が、ライト・パターソン空軍基地からネヴァダ砂漠(エリア51などがある場所)に移送された時には、CIA長官になっていた。

彼がロズウェル円盤に関する秘密プログラムでどの程度の情報を知ったかは、依然として謎である。

ベデルスミスは第二次大戦中はアイゼンハワー将軍の右腕的存在で、「アイゼンハワーの懐刀」と呼ばれていた。

パットン将軍の処分が必要になった時にそれを担当したし、ナチスの降伏条件をまとめ上げたのも彼である。

そんな彼は、46~48年はソ連に駐在し諜報活動にあたった。

機密解除された文書を見ると、彼はソ連が悪辣きわまりない計画を立てていると考えていた。

ベデルスミスがCIA長官をしていた1952年に、UFOヒステリー問題に対処するため、CIA内に「心理戦略委員会」を設けた。

この委員会は、「アメリカ国民はUFOをたやすく信じ込むので、その感性は安全保障上の脅威である。大衆のヒステリーは権力にとって害悪となりうる」と警告した。

そこでベデルスミスは、NSCで「UFOへの不安は根拠がないと知らしめる必要がある」と訴えた。

機密解除されたCIA文書を見ると、CIAはUFOの種明かしキャンペーンを行った。

この工作は、一部のマスメディアを使って、UFO事件の種明かしをしてみせるというものだった。

1947年7月のロズウェル事件では大きな騒ぎとなったが、市民の目撃情報の一部については軍の情報部も注目した。

そのため報告書が作られて、技術情報局に分析が委ねられた。

ネイサン・トワイトニング将軍が『プロジェクト・サイン』を立ち上げるのは、その半年後の48年1月のことだ。

『プロジェクト・サイン』は、初めは『プロジェクト・ソーサー』と呼ばれていて、UFOの調査に何百人ものスタッフが充てられた。

つまり空軍は、熱心に調査をしながら、一貫してUFOを否定してきたのである。

空軍の高官は、「どんな形であれ空軍がUFOに関心を持っている事を公に示さないほうがいい」と考えた。

そこで49年12月27日に、プロジェクト・グラッジを終わらせて、「もはやUFO調査を続ける理由はない」と公式に表明した。

その一方で秘密のUFO研究を続けて、空軍は52年にはUFO機密組織『プロジェクト・ブルーブック』を始動させている。

UFOの目撃情報は増していき、「緑がかった明るい光が空中に見えた」という報告もあった。

それを目撃した場所は、ニューメキシコ州のロスアラモス、サンディア、ホワイトサンズといった軍事施設の近くが多かった。

空軍の地球物理学研究部門は、こうした光の現象について調査する『プロジェクト・トゥウィンクル』を1949年に始めている。

これを受けて、各地の空軍基地に観測所が設置され、国中の航空交通管制機関には35ミリカメラを与えて変なものを見たら撮影するよう指示した。

空軍にはUFO情報が集まってきたが、ペーパークリップ作戦に関わる元ナチスの科学者たちは「目撃例の多くは(米軍が実験中の)V-2ロケットの航跡雲を見たものだ」と断定した。

空軍はデータ収集のため市民に面談したが、口外しないように念を押し、情報漏洩防止の書類に署名を求めた。

UFO目撃例には説明のつかないものもあったが、それは指揮系統の上方に送られ、少数の「情報適格性(情報に接する権限)」を付与された人物の解釈に委ねられた。

UFOの重要な情報は、選ばれた少数を除いて、万人に隠されたのだ。

プロジェクト・ブルーブックに携わっていた2人の空軍人、カークランド大佐とルッペルト中尉は、カリフォルニアで開かれたUFO研究家の会議に送り込まれた。

それは1952年4月2日のことで、その会議にはタイム誌やライフ誌の記者やコロンビア映画のスタッフも出席していた。

2人の空軍人が参加した理由は、CIAから「民間のUFO研究グループを監視するように」と要請されていたからだ。

空軍の調査官だった人物の中には、退職した後にUFO研究家と行動を共にする者も現れていた。

CIAはこの会議に出席した者のうち、ヴァルター・リーデルにとりわけ関心を寄せていた。

リーデルはドイツ人の科学者で、ヒトラーの下でV-2ロケットの設計室長を務めた人物だ。

ドイツが降伏すると刑務所に入れられ、米軍から苛酷な尋問をうけて、前歯を叩き折られた。

彼はヴェルナー・フォン・ブラウンと同様に、米軍にスカウトされてペーパークリップ作戦に従事した。

ヴァルター・リーデルはロケット開発の他に、細菌兵器の開発もしていたため、ニュルンベルグ裁判で訴追されてもおかしくなかったが、その前歴はうやむやにされた。

そしてテキサス州フォートブリスでV-2ロケットの製造に従事したが、その後に航空機製造会社「ノースアメリカン・アヴィエーション」に転職した。

ノースアメリカンでは、ロケットエンジンの研究部門の責任者となった。

彼は民間人となったので、UFO研究家と交わり、ライフ誌に登場して「UFOを地球外のものとする充分な根拠がある。私は米政府のために秘密の仕事をしている」と語ったりしていた。

CIAはリーデルをマークしていたが、リーデルの同僚のロケット科学者であるジョージ・サットンもマークしていた。

サットンはUFO研究家でもあり、ソ連のUFO情報にも詳しかった。

CIAは、サットンの持つソ連におけるUFO情報に衝撃を受けていた。

なぜならスターリンのソ連はUFO情報をいっさい報道させず、CIAは全く情報を得ていなかったからだ。

リーデルやサットンの情報元をCIAは調べたはずだが、そのファイルは今でも極秘扱いのままである。

(『ペンタゴンの陰謀』フィリップ・J・コーソー著から抜粋)

1947年にロズウェル事件が起きると、トルーマン大統領の(ロズウェル事件や宇宙船に関する)諮問委員会の発足に呼応して、ホイト・ヴァンデンバーグ空軍参謀総長はプロジェクト「サイン」を発令した。

「サイン」は、航空技術情報センターでUFOの調査にあたらせ、49年2月までに243件の目撃情報を得た。

次のプロジェクト「グラッジ」では、244件のUFO目撃報告が確認された。

1949年にCIAの科学調査庁は、UFOについて強い懸念を表した。

1952年にアメリカ空軍は、プロジェクト「ブルーブック」を発令した。

これはUFO目撃を隠蔽するためのものだった。

同じ52年に国家安全保障会議(NSC)は、UFOがアメリカに脅威を成すかどうか、CIAに調査を命じた。

1953年1月14日、アイゼンハワー大統領の就任式を目前に控えて、CIAと空軍の担当者がペンタゴンにおいてUFO事件を話し合った。

これが「ロバートソン委員会」である。

メンバーには、国防省兵器系統評価団・団長をつとめるCIAのハワード・P・ロバートソン博士や、ブルックヘイブン国立研究所・理事のロイド・バークナー博士らがいた。

ロバートソン委員会は、3日かけて空軍の収集したUFO目撃報告を検討し、UFOが映ったフィルムを2本見た。

その結果、「アメリカに脅威を及ぼす恐れはない」と結論づけ、「目撃報告を公表すべき」とした。

だが公表されず、1988年になってようやくCIAが公表した。

1954年にネイサン・トワイニング空軍幕僚長は、「空軍規則200-2」を発令し、UFOが隕石などの自然現象だった場合に限り、マスコミに情報を流すことを決めた。

1950年代に私はホワイトハウスのスタッフを務めたが、隠蔽工作が日増しに進められるのを目の当たりにした。

1961年に空軍は、2つのプロジェクトを打ち出した。

「ムーンダスト」は、墜落した外国の人工衛星を回収することを定めたものだが、実際はUFOの回収を目指していた。

「ブルーフライ」は、墜落した人工衛星やUFOを、ただちにオハイオ州デイトンのライトパターソン空軍基地に移送するよう定めたものだった。

どちらのプロジェクトも、ロズウェル事件でのUFO回収とライトパターソン基地への移送に倣ったものだ。

数年後に空軍は、プロジェクト「セイント」と「ブルージェミニ」を発動した。

これは敵の人工衛星やUFOを探知して、攻撃しようというものだ。

「セイント」は、人工衛星にテレビカメラと探知・追跡レーダーを搭載するものだった。
敵の人工衛星またはUFOを発見すると、カメラとレーダーががっちり捉える。

「ブルージェミニ」は、見つけた人工衛星やUFOを攻撃するための、人工衛星である。

このプロジェクトの人工衛星は、人工衛星を得意とするヒューズ社が開発した。

セイントもブルージェミニも、対弾道ミサイル用の兵器の先駆けとなった。

1969年12月17日に空軍は、プロジェクト「ブルーブック」の終了を発表した。

1.3万件あまりのUFO目撃情報を検討したが、いずれも自然現象か地球上の物体であったと発表した。

だがこのプロジェクトは、最初から異星人の宇宙船を否定するPR活動(人々を騙す隠蔽工作)にすぎなかった。

(2019年2月4日に作成、2022年10月27日に加筆)


『アメリカ史 1950年代』 目次に戻る

『アメリカ史 ロズウェル事件』 目次に戻る

『アメリカ史』 トップページに行く

『世界史の勉強』 トップページに行く

『サイトのトップページ』に行く