ネヴァダ核実験場での数々の核実験

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

エリア51では、『プラムボブ作戦』という一連の核実験が1957年に行われた。

国防総省は「原爆を積んだ飛行機がアメリカ国内で墜落する事故は、いつ起きてもおかしくない」と判断していて、事故になったら大事故になり、核兵器は「汚い爆弾(ダーティ・ボム)」と呼ばれるだろうと考えていた。

この悪夢のシナリオをテストするために、秘密のエリアで核兵器を積んだ空軍機の墜落事故のシュミレーション実験が行われる事になった。

実験場所は「2万年間、放棄しておける」のが条件で、エリア51が選ばれた。

こうして『57プロジェクト』(後にプロジェクト57に改称)という暗号名の下、原子力委員会、空軍、EG&Gが連携して進められた。

プレスリリースでは、57プロジェクトは単に「安全テスト」と言われるのみだった。

当初の実験予定地はパープス湖(乾燥湖)だったが、そこは近くの核実験場で何度も実験があり、8頭の乳牛が死んだことをめぐって地元農民と争っていた。

1953年3月に牛たちがパープス湖で草を食んでいた時、近くで24キロトンの核爆弾「ナンシー」が爆発したのだ。

ナンシーは一帯に死の灰を浴びせ、馬も16頭死んだ。

牛と馬の所有者であるスチュアート兄弟は、政府に賠償金を求めた。

しかし馬には1頭あたり300ドルが支払われたが、牛は「核実験が原因ではない」と拒否された。

原子力委員会はスチュアート兄弟を言いくるめようとし、「死んだのは餌の不足が原因」とか「過去の核実験では牛が放射線で背中全体を焼かれたが、今でもぴんぴんしている」と嘘の説明をした。

スチュアート兄弟は納得せず、紛争は未解決のままだった。

そこで原子力委員会はパープス湖ではなく、(エリア51にある)グルーム湖で実験を行う事にした。

57年3月に『プロジェクト57』の準備が始まり、ニューメキシコ州のサンディア研究所から核弾頭が運ばれてきた。

核弾頭の保管場所は、エリア13と呼ばれることになった。

リチャード・ミンガスは、朝鮮戦争から帰還した後、ラスベガスのサンズ・ホテル(有名なカジノ場)で働いた。

24歳の彼は、給仕として勤務していたが、フランク・シナトラ、ディーン・マーティン、サミー・デイヴィス・ジュニアらの生歌を聴ける環境にも厭きてしまった。

そこで別の仕事を探し、ラスベガスから北西に100kmほど行った所にあるネヴァダ核実験場で働くことになった。

1951年にネヴァダ核実験場で始まった核実験は、ラスベガスの経済をうるおしていた。

だからラスベガス市は支持していたが、『ティーポット作戦』という核実験では12個の核爆弾が使われ、地元住民は反対運動をしていた。

リチャード・ミンガスは、核兵器に関わる職に必要なQ証明を与えられ、エリア51の警備員になった。

エリア51の警備を行う「フェデラル・サーヴィス社」の一員となったのだ。

アメリカは、ネヴァダ核実験場を1951年に開設するまでは、太平洋の環礁や島で核実験を行っていた。

だが実験のたびに1万人以上の人員や何百万トンもの機材をアメリカ本土と往復させるのは手間がかかるので、エドワード・テラー博士が実験場をアメリカ国内に造ることを提案した。

ネヴァダに実験場を造れば、(核兵器の研究施設がある)ニューメキシコ州ロスアラモスから飛行機で2時間とかからない。
1週間の長旅を強いられる太平洋の実験場とは大違いだ。

1950年に『プロジェクト・ナツメグ』なる暗号名の下で、核実験に適した場所が調査され、ネヴァダ州南部が最適だとの結論がトルーマン大統領に示された。

その結果、「NTTR(ネリス試験訓練場)」は政府直轄の土地となった。

好都合なのは、NTTRの入口からわずか11kmの場所に政府所有のインディアン・スプリングス飛行場がある事だった。

ネヴァダ州南部は、かつては動物保護区で、野生動物がたくさんおり、キットギツネやヨコバイガラガラヘビの生息数は国内のどの地域よりも多かった。

さらに先住民の暮らした洞窟跡もある。

それが第二次大戦中の1942年に、軍の爆撃訓練場となった。

戦後は放置されたが、4分の1の土地がネヴァダ核実験場となり、51年1月27日に初の核実験が行われ、B-50が原爆を投下した。

この核実験の後、第2の核開発研究所(ローレンス放射線研究所)が、カリフォルニア州リヴァモアに創設された。

ローレンス放射線研究所の創設は、ロスアラモス国立研究所と競わせようという原子力委員会の目論見があった。

ほどなくリヴァモアとロスアラモスは、助成金をめぐってしのぎを削るようになった。

1951年1月から56年1月の5年間に、ネヴァダ核実験場では49回の核実験が行われた。

リチャード・ミンガスが警備員に雇われたのは、これから過去最大の核実験『プラムボブ作戦』が始まる時だった。

そして最初に予定されている実験が『57プロジェクト』だったのだ。

ミンガスはライフルの射撃訓練で優秀な成績を出すと、秘密基地の警護にあたる5人のひとりに選ばれた。

丘を越えた所にあるその基地(エリア51)は、「デルタサイト」と呼ぶのが決まりだったが、ミンガスはこう語る。

「上官の軍曹ですら、丘を越えてデルタに行くのは認められてなかった。
 俺の上司だというのに、情報適格性がなかったんだ。

 だから最初にあそこへ車で向かった時は興味津々だったよ。
 ところが変わった事なんてなく、砂漠の中に(U-2偵察機の)
 滑走路があるだけだった。

 あそこはウォーター・タウンとも呼ばれていたが、その言葉は
 使うなという事だった。
 我々はいつもデルタと言っていた。」

ミンガスと同僚たちは、所定の場所に交替で立った。

「通行証を持たない者は誰であろうと立ち入りを拒否したから、
 階級が高い者が入りたがった時に険悪な雰囲気になった事もあった。

 我々は人を追っ払うのが仕事だった。

 U-2は、頭のすぐ上を飛んでたから、パイロットの顔も見えたよ。」

『プロジェクト57』の準備は進み、1957年4月に核実験が行われることになった。

しかし、住民には全く知らされなかった。

実験に向けて、まず4000個もの放射性降下物の収集器が設置された。

この容器には粘着性の樹脂が吹きつけられていて、大気中のプルトニウム粒子を集められるようになっていた。

さらにミリポア・フィルターを使ってエア・サンプリングを行う68ヵ所の観測地点も設けられた。

国防総省は、都市で核兵器の爆発が起きた場合を調べるために、歩道や縁石を原寸大で砂漠の中に造った。

自動車の汚染具合を調べるため、乗用車やトラックも並べられた。

エア・サンプリング用に繋留された巨大な気球が、地上から1.5mから300mと様々な高さに浮かべられた。

さらにロバや犬や羊も、檻に入れられて置かれた。

しかし本番の日が来ても、実験は行われないまま過ぎた。
強風だったからだ。

核爆弾を気球に付けて飛ばし、空中で爆発させるというのは、今回のプロジェクトで初めて実行されるものだった。

それまでは金属製の高い塔を建てて、そこに核爆弾を設置していたが、塔の建造やエレベーターの設置に金がかかるので、気球を使ってコストダウンする事にしたのだ。

4月24日は天候が良かったので、『プロジェクト57』の実行指令が出された。

エリア13に用意された核弾頭が点火され爆発した。

放射性降下物は、グルーム湖周辺の3.6平方kmに飛び散った。

この実験で、プルトニウムを肺に吸い込むと確実に死ぬこと、口から入っても胃にいけば体内に留まらず排出され体に吸収されないことが分かった。

また、プルトニウムが時の経過で地中の位置(深さ)を変えない事も分かった。

プロジェクト57を監督したジェームズ・シュリーヴ博士は、次の報告をしている。

「チャールズ・ダーウィンは4000平方mの庭について調査し、
 5万3千匹のミミズが動かす土の量は18トンに達すると主張した。

 こうしたミミズによる土壌の移動、ミミズ自身のプルトニウムの
 摂取は、知らず知らずに甚大な影響を与えかねない。」

要するに、ミミズやそれをついばんだ鳥によって、プルトニウムは離れた場所に移動する可能性があるのだ。

だが汚染されたエリア13の土地は、まだまだ核実験が予定されていたので、放置された。

エリア13の土壌の上層部が取り除かれたのは、1998年のことである。

プロジェクト57が実行された2週間前、ノーベル化学賞を獲っているライナス・ポーリングが声明を出した。

「核実験の結果、翌年に生まれる子供の1%に先天的な異常が生じる」

原子力委員会はさっそく反論し、委員会の生物医学局の副局長C・W・シリングは言った。

「ヒトの生殖腺への影響という点では、熱すぎる湯に浸かるのも、核実験で生じた放射性降下物をそっくり浴びたのと同程度の害になりうる」

とんでもない主張だったが、当時のアメリカ人はこっちを信じたがった。

ヨーロッパや日本から核実験の中止を求める運動が起きると、原子力委員会はプロパガンダを展開した。

一連の実験は大統領の承認を得ていると公表され、24の核実験はどれも「低出力の実験」と説明した。

だがそれらは、広島に落とされた原爆の2倍以上の破壊力である。

プロジェクト57に続いて、57年5月28日に行われた核実験は、「ボルツマン」といい、12キロトンという広島に投下されたものと同規模だった。

リチャード・ミンガスによると、爆風でもの凄い揺れが来ると、現場にいたCIAのお偉方たちは皆、個人用飛行機に乗って一目散に逃げてしまった。

エリア51のスタッフも一時避難となった。

57年7月5日には、フード爆弾(74キロトン)という並外れて大きなものが、エリア9で実験された。

陸軍は爆心地の近くに、檻に入れ様々な服を着せた70頭の豚を置いた。
原爆にどの素材が強いか見極めるためだ。

そのはるか後方では、100人の兵士が塹壕に横たわっていた。
これは秘密実験で、核兵器が爆発した時に兵士がどんな心理・反応になるか調べる目的があった。

フード爆弾の閃光は(夜中だったのもあり)カナダやメキシコでも確認できたが、爆風は560km西にあるロサンゼルスに25分後に届き警察への通報が殺到した。

フード爆弾が炸裂した直後、ミンガスは原子力委員会から「エリア51の警護をしろ」と命じられた。

エリア51の従業員は全員退避しており、ミンガスが単独で警護する事になったのだ。

ミンガスは語る。

「バンディット山の全体から炎が上がっていた。
 全ての木に火が付いていた。

 道には爆風で飛んできた岩がごろごろしていた。
 車の窓は閉めていたが、ガイガーカウンターは鳴りっぱなしだった。

 エリア51に着くとガイガーカウンターは静まったが、
 そこはゴーストタウンだった。」

エリア51は爆心地から15kmと離れておらず、建物の扉は歪んでしまっていた。

放射能の灰が空から舞い降りてきた。
ミンガスはその日ずっと、誰ひとり見かけなかった。

爆心地の砂は3000度の高温にさらされて、ガラスの小片に変わっていた。
エリア51は人の住めない場所となった。

その後エリア51は、1959年の夏までは、管理を任された夫妻しか住まなかった。

原子力委員会の作業者はガイガーカウンターを持って歩き回り、放射性物質の降下状況を調査した。

当時は防護服は存在せず、作業員たちは白衣にブーツの恰好で調べて回った。

そこに住む野生動物たちは、みな全身にベータ線熱傷(広島や長崎で人や動物を苦しめたもの)を負っていた。

(2019年2月24日に作成)


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