(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)
1957年の夏、ロッキード社のケリー・ジョンソンは新型偵察機の設計に専念していたが、レーダー反射の達人を探していた。
9月になると、ロッキード社でエコー反射を研究していた38歳のエドワード・ロヴィックは、ジョンソンから「プロジェクトに加わらないか」と誘われた。
こうしてロヴィックは秘密グループへ加入し、公的には「先進開発企画」と呼ばれ、『スカンク・ワークス』と渾名されたプロジェクトに参加した。
CIAはU-2偵察機にステルス性を加えるためMITのボストン・グループに塗装を施させたが、すでに失敗(墜落事故)に終わっていた。
ロヴィックは言う。
「ステルスあるいはアンチ・レーダーの技術は、敵がレーダーで探知して撃ち落とそうとするのを阻むものだ。
レーダーの働きはコウモリに似ている。
コウモリがキーキー鳴くと、その音が虫にぶつかって反射し、コウモリに戻って来る。
その音で虫までの時間と距離を測るわけだ。
これへの対処法は、レーダーの反射する方向を変えてしまう表面を作り出すことだ。
あとはレーダーを吸収する解決法もあった。
だがこれはすごく難しいと分かった。」
CIAとロッキード社が開発する新型機は、高度2万7千mを時速3700km(マッハ3)で飛行するのを目指していた。
当時はマッハ2でさえとんでもない数字だった。
もしマッハ3で飛べれば、ソ連のレーダーの射程内に留まるのは20秒に満たなくなる。
その20秒が過ぎると、近くなりすぎてミサイルで迎撃できなくなるのだ。
ミサイルは高高度になると正確性が失われるので、2万7千mの高さをマッハ3で飛べばミサイルを命中させるのは不可能だった。
マッハ3を実現させるジェット・エンジンの設計は、「プラット・アンド・ホイットニー社」の担当だった。
ロヴィックはステルス技術のテスト用に、ロッキード社で初となる無響室を造った。
無響室とはエネルギー(音などの振動)を吸収する素材で覆われた閉鎖スペースのことで、そこで偵察機の模型にレーダー・ビームを当て、反射具合をテストした。
偵察機の形状やデザインは改良されていき、11回の大きな改変があって、「アークエンジェルー1」としてスタートした開発機は「アークエンジェルー12(A-12)」となった。
ケリー・ジョンソンとロヴィックはたまにワシントンDCへ行き、CIA高官のリチャード・ビッセルやアイゼンハワー大統領の科学顧問と会って進捗状況を報告した。
最終的に、レーダー反射の断面積を90%も減らせた。
この開発プロジェクトには、航空宇宙関連の「コンヴェア社」も参加していた。
1959年夏の終わりに、開発機のテストをするためスカンク・ワークスに従事する50人がエリア51に入る許可がおりた。
原寸大の模型をエリア51に運び、レーダーを当ててテストする事になったのだ。
エリア51では約1年前に「チタニア」という暗号名の原爆が爆発実験されていた。
放射線量がどれくらいだったのか、そこに入っても安全だったのかは、未だに明らかにされていない。
フルサイズのA-12の模型が空中に吊り下げられて、1km離れたレーダー・アンテナからレーダーが当てられた。
CIAは、ソ連の偵察衛星技術がどれほどか把握できておらず、A-12のレーダー反射テストはソ連の人口衛星が上空に居ない時に行っていた。
チームの面々は、ソ連の人工衛星の周期がわかる早見表を常に携帯していた。
59年12月に、A-12の説明がアイゼンハワー大統領になされた。
その場には、ポラロイド・カメラの発明者で億万長者のエドウィン・ディン・ランドもいた。
だがA-12には問題があった。ロヴィックは言う。
「ジェット・エンジンから出ている排気管に、ステルス性を持たせる事が出来なかった。
レーダー波はそこから入り込んで、はね返って出てくるんだ。
それを説明した時、リチャード・ビッセルは激怒したよ。
彼は解決策を見出さないかぎり契約は破棄すると脅してきた。
東側世界を偵察しようとして、撃墜されたり訓練中に事故死したりで、100名以上が亡くなっているのは私も知っていた。
私は、燃料にセシウム化合物を加えることで、排気ガスがイオン化されて、レーダーに感知されなくなるというアイディアを伝えた。」
このアイディアは試されて、正しい事が証明された。
その詳細は2011年現在でも機密扱いになっている。
こうしてロッキード社は契約破棄を免れて、A-12には『オックスカート(牛車)』という暗号名が付けられた。
A-12は製造段階へと移行し、テスト飛行がエリア51で行われる事になった。
U-2の5倍近い予算を割り当てられたこの新型機は、CIAと空軍が共同管理することになった。
取り急ぎ必要なのは、かつてない長さの滑走路と巨大な燃料貯蔵庫だった。
A-12の燃料タンクは積載が4万リットルを超えており、機体で最も大きなパーツだった。
燃料補給はときに空中で行われるが、その際は燃料の温度はー68度まで下がる。
ところがマッハ3で飛行中は140度まで上昇する。
だからJP-7という特殊な燃料が使われるのだ。
A-12のために2500mの滑走路が新設された。
さらにA-12のテストでは、追跡用のF-104、捜索救助用のヘリコプターなどもセットになっていた。
マッハ3で飛行すると、すぐUターンするにしても300kmという距離が必要になる。
そのためエリア51の周辺は飛行制限空域が一気に拡大された。
FAA(連邦航空局)に通達され、さらにFAAの職員は「高度1.2万m以上を飛ぶものについては質問するな」と指導された。
CIAはソ連の人工衛星を警戒していたが、ソ連の衛星はA-12の開発を探知していた。
ホワイトハウスがゲイリー・パワーズ事件(1960年5月にあったU-2の撃墜事件)で混乱している時、エリア51ではCIAと空軍がU-2の後継機となるA-12の製造を進めていた。
ロッキード社で、A-12は一機づつ手鍛造でつくられていた。
リチャード・ビッセルによれば、1300万の部品が使われたが、各部品はチタンで作られていた。
マッハ3の速度にもなると、飛行機の胴体の表面は500~600度の熱になり、エンジン近くは1000度近くになる。
純度の高いチタンでないと耐えられないのだ。
ロッキード社の技術者は、チタンが塩素とカドミウムに弱い事に気付いた。
カドミウムはロッキード社の工具全般の表面を覆っている物質だったため、別の工具に入れ替えられた。
ピッグス湾侵攻(キューバへの侵攻作戦)が失敗に終わると、ケネディ大統領はリチャード・ビッセルをクビにした。
そうなると誰がA-12計画の指揮を執るのかが問題となった。
ケネディはCIAと空軍が連携して取り組むのを望み、その結果1961年9月6日に宇宙探査と偵察機の計画は、CIA副長官と空軍次官が『NRO(国家偵察局)』という新組織の下で共同で進める事になった。
NROは、国防総省の内に設置され、表向きは国防総省の宇宙システム局の体面をとり、その存在は1992年まで秘密にされた。
(新型偵察機A-12の開発②に続く。
②は「アメリカ史 1960年代」にあります。)
(2019年3月1日に作成、10月19日に加筆)