オゾン層および大気圏外での核実験

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

アイゼンハワー大統領の首席科学顧問をしているジェームズ・キリアンは、1958年に大規模な2つの核実験を監督した。

「ティーク」と「オレンジ」と呼ばれる2つの核爆弾は、どちらも威力は3.8メガトン。

ハワイの1200km西にあるジョンストン環礁の上空大気圏で爆発させ、ティークの高度は80km、オレンジは高度45kmだった。

これはオゾン層のある高度だ。

「将来にソ連が高高度で核実験をした時に、それを感知する方法を知る必要がある」というのが、実験をしたキリアンの言い分だった。

実際には感知は難しくなく、ティークとオレンジの火球は半径360km圏内でゴーグルを付けずに空を見上げていたどんな生物の網膜も焼き尽くした。

その中には数百匹の猿と兎もいた。
猿と兎は飛行機に乗せられ、頭を道具で固定されてメガトン級の爆発を目撃させられたのである。

オゾン層に穴を開けてしまう事が心配されたが、実験後にその調査は行われなかった。

アメリカ政府の保管する記録映像には、ヴェルナー・フォン・ブラウンの姿も映っている。

彼は核弾頭をオゾン層まで飛ばすレッドストーン・ロケットを設計していた。

1958年8月1日にティークの実験が行われたが、その破壊力に怖気づいたのだろう。
フォン・ブラウンは、次にあるオレンジの実験の前にジョンストン島を去ってしまった。

ティークの実験に技師として参加したアル・オドネルは、こう語る。

「我々はジョンストン島にいた。

実験では、ミサイルにプログラム障害が生じて、ロケットは真上に打ち上げられ、核爆弾が真上で爆発してしまったんだ。

本当は42km南で爆発するはずだった。

真上で爆発した時、ほんとに死んだと思ったよ。
白くてまぶしい巨大な爆発だった。

島の鳥たちはみんな消えてしまってね。死んでしまったのかもしれない。」

この大規模な環境破壊の核実験のすぐ後に、『アーガス作戦』と呼ばれる核実験が行われた。

防衛原子力局が1993年にまとめた報告書には、こう書かれている。

「大統領の承認から半年以内に完了した。

その作戦は、核弾頭を搭載したミサイルを初めて船から発射した。」

1958年8月27日と30日、9月6日に、3つの核弾頭が南大西洋の南アフリカ沖に浮かぶ軍艦の甲板から、X-17ロケットで打ち上げられ、500km上空で爆発した。

この実験は、ギリシャ人の物理学者ニコラス・クリストフィロスの発案だった。

彼は「大気圏外で核爆発を起こせば、アメリカに向かってくるソ連のICBMの核弾頭の起爆装置にダメージを与える、電子パルスを生み出すかもしれない」と主張した。

結局、電子パルスはわずかで、実験は失敗に終わった。

ジェームズ・キリアンは1958年11月3日付けの手紙で、アイゼンハワー大統領にこう報告している。

「実験で特に注目すべきは、揺れる船の甲板から核弾頭を搭載したロケットを発射させるのに成功した点です」

この核実験はアメリカ国民は知らなかったが、ソ連政府はもちろん知っていた。

ソ連も大規模な核実験を進めていて、1961年10月30日には「ツァーリ・ボンバ」と呼ばれる50メガトンの水素爆弾が爆発した。

これは第二次大戦中の7年間に使われた総爆薬量の10倍に相当する。
広島と長崎の原爆を含めてである。

ツァーリ・ボンバは、1600km以上離れたフィンランドの窓ガラスをも割った。

半径650km圏内で爆発を見ていた人がいれば、失明しただろう。

(2019年10月20日に作成)


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