(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
1946年以来、フランスの介入により、インドシナでは戦争が続いていた。
ハリー・トルーマン政権は、ベトナムのホー・チ・ミン政権を認めずに、フランスが南部ベトナムに作ったバオ・ダイ政権を承認した。
そして、フランスに大量の軍事援助をした。
1954年4月に、フランス軍はベトナムの地で決定的な敗北をした。
アイゼンハワー大統領は、「インドシナが倒れれば(共産主義化すれば)、他の国々も倒れる(共産化する)」と警告した。
これが後に、べトナム介入を合理化する『ドミノ理論』として用いられる。
アイゼンハワー政権は、インドシナ問題を「東西対立の問題(冷戦の一部)」とした。
これにより、インドシナ処理の方法が、著しく狭められた。
イギリスのチャーチルは、交渉による解決を主張した。
アメリカは、和平会議に渋々ながら参加した。
和平会議(ジュネーブ会議)では、「フランス軍の撤退」「北緯17度線を休戦ラインとして南北に分割し、2年後には統一選挙を行うこと」が決まった。
しかし、アメリカは調印を拒否した。
アメリカは、南ベトナムに親米政権を作り、南北の統一選挙を阻止した。
ここに、南北ベトナムの分断は固定化した。
1954年9月に、アメリカ・イギリスらは、『東南アジアの防衛条約機構(SEATO)』を結成した。
そして、中国と北ベトナムの包囲網を完成させた。
これにより、米中の対決は長く続く事になる。
国務長官のジョン・フォスター・ダレスは、対中国の戦争を主張したが、アイゼンハワーは却下した。
(2013年10月17日に作成)