(『エコノミック・ヒットマン』ジョン・パーキンス著から抜粋)
(同①~②は、『アメリカ史 1970年代』にあります)
1981年5月に起きた、エクアドル大統領ハイメ・ロルドスの暗殺に、私は衝撃をうけた。
あまりに露骨なやり方だったからだ。
それほどあからさまに実行されたのは、メッセージを送るためだと、私は理解した。
アメリカのロナルド・レーガン政権は、オマール・トリホスらに「逆らえば殺す」と伝えたのだ。
けれど、パナマ指導者のオマール・トリホスは屈しなかった。
パナマ運河条約の再交渉についてのレーガンの要求を、頑なに拒んだ。
そして、ロルドスの死から2ヵ月後に、トリホスも飛行機事故で命を落とした。
1981年7月31日のことで、52歳だった。
トリホスは、アメリカに敢然と立ち向かう男として尊敬されており、ノーベル平和賞の呼び声も高かった。
ロルドス暗殺の時と同じく、ラテンアメリカの新聞は「CIAによる暗殺!」と書き立てた。
何年も後に、グレアム・グリーンはノンフィクションの『トリホス将軍の死』を書いた。
その中で、こう書いている。
「私の友人であるトリホス将軍を乗せた小型機は、自宅に向かう
途中で墜落し、生存者はいないという。
数日後に、彼の護衛をしていたチュチ軍曹から電話があった。
そして、こう言ってきた。
『あの飛行機には、爆弾が仕掛けられていました』」
アメリカ軍の幹部たちは、トリホスとカーター大統領が結んだ条約によって、『パナマで米州学校(SOA)と熱帯地域戦の訓練センターが閉鎖されたこと』に怒っていた。
トリホスを敵視していた企業は、その多くはアメリカの政治家と密接な繋がりがあり、中南米の天然資源や農地の搾取に関わっていた。
べクテル社は、その代表例だ。
べクテル社は、アメリカで最も影響力のあるエンジニアリング会社で、取締役にはレーガン政権で高官を務めたジョージ・シュルツやキャスパー・ワインバーガーもいた。
彼らは、トリホスが新パナマ運河の建設工事に日本企業から設計案を求めたことを、嫌悪していた。
トリホスの後は、マヌエル・ノリエガが権力(軍の最高司令官)を引き継いだ。
ノリエガはカリスマ性も知性も持たず、レーガン=ブッシュ政権やベクテル社に勝ち目がないのは衆目の一致するところだった。
トリホスが生きていたら、中南米に蔓延する暴力を鎮めようとしたことは疑う余地がない。
彼は、国際石油会社による自然破壊を止める策を考えていた。
(2015.7.7.)