中国では蒋介石の国民党を支援するが、
共産党が勝ち中華人民共和国が生まれる

(『早わかり世界近現代史』から抜粋)

アメリカは、蒋介石の国民党を通じて中国を支配しようとし、太平洋戦争が始まると国民党に膨大な援助をした。

その額は、大戦終結までに16億ドル、49年に国民党政権が台湾に逃れるまでに44億ドルにもなった。

アメリカは、第2次世界大戦で日本を負かすと、東アジアにおける覇権を確立した。

中国では、1945年8月の日本の降伏時でも、国民党と共産党の主導権争いが続いており、軍事面で劣る共産党は対決を回避しようとした。

1945年8月に重慶で、蒋介石(国民党)と毛沢東(共産党)の会談が行われて、8つの解放区(共産党が支配する地区)の解消、軍隊の削減など、共産党側は大きく譲歩した。

その結果、10月10日には内戦を回避する『双十協定』が結ばれた。

翌46年1月には、『国共の停戦協定』も結ばれた。

しかし46年3月に、力を過信した国民党は、共産党の解放区に総攻撃を始めた。
『国共内戦』の勃発である。

国民党軍は、アメリカから支援を受けており、430万人の兵士がいた。

一方の共産党軍は120万人であり、開戦から4ヵ月で、解放区の105都市が国民党軍に占領された。

国民党政府は、首都を重慶から南京に移し、11月には「中華民国の憲法」を制定した。

そして翌年には、蒋介石が総統に選出された。

1946年以降の共産党は、地主の土地を没収して農民に分配する「土地革命」を実施して、農民を兵士にした。

この兵士たちは、47年3月に「人民解放軍」と名付けられた。

共産党は、農村から国民党の支配する都市を包囲する作戦を採った。

47年3月には、共産党の中央機関が置かれている延安が、国民党軍によって占領された。

しかし人民解放軍は9月から反攻を始めて、48年10月には東北地方の全域が人民解放軍の制圧下になった。

49年2月になると、国民党は長江以北を放棄せざるを得なくなり、同年末までには台湾を除くほぼ全域が共産党の支配下に入った。

1949年9月に、共産党は臨時憲法を制定して、毛沢東が主席、周恩来が総理に就く。

そして10月1日に、毛沢東は『中華人民共和国』の成立を宣言した。

社会主義国家・中国が誕生したのである。

その一方で、敗北した蒋介石は台湾に脱出した。

そして49年12月に、台湾北部に落ち着いて、『中華民国政府』を樹立した。

(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)

中国が内戦に入ると、アメリカ政府は「大規模な介入は、世論の動向から見て不可能だ」と判断した。

ハリー・トルーマン大統領は内戦の調停をしたが、効き目はなかった。

アメリカは蒋介石政権を支援したが、48年秋には国民党軍は総崩れとなり、49年1月には人民解放軍が北京に入城した。

そして49年10月1日に、『中華人民共和国』が成立した。

アメリカは元来、「列強の中国分割に反対してきた」という自負があり、中国から信頼されていると信じていた。

そのために挫折をおぼえて、トルーマン大統領の責任を追及する声が高まった。

そして、失敗の原因をアメリカ政府内の「容共分子(共産主義に理解を示す人々)」に求める雰囲気が生まれた。

(これが赤狩りに繋がります。今から見ると、勘違いも甚だしいですね。)

(2013.10.10.作成)


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