トルーマン・ドクトリン
英国圏を守るために共産主義陣営と対立し、
西側諸国への援助を始める

(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)

1944年10月に、英国首相のチャーチルはモスクワを訪問して、ソ連のトップのスターリンと、バルカン半島の分割について密約をした。

この密約では、ルーマニアとブルガリアはソ連圏で、ギリシアは英国の勢力圏とされた。

英国としては、ユーゴスラビアに次いで共産党のレジスタンスが強力だったギリシアへの、ソ連の進駐を阻止する狙いがあった。

1944年12月には、ギリシアの共産主義の勢力は、英国軍と戦闘を始めた。

アメリカの調停が入り、総選挙の実施などを条件として、休戦になった。

46年3月に総選挙は行われたが、英国側の介入・干渉があった。

そのため、共産(ソ連)側はゲリラ活動に入り、内戦が始まった。

ギリシア政府は国連に提訴した。
ソ連は拒否権を発動せず、調査団に加わった。

英国は、軍事援助を続ける金がなくなり、47年2月にアメリカに、ギリシアとトルコへの軍事援助の肩代わりを要請した。

アメリカのハリー・トルーマン大統領は、「貿易自由化には、英国圏の安定が不可欠だ」として、英国の要請を承認した。

そして47年3月に、米議会に対して、「世界は、自由主義か全体主義かの選択にさらされており、自由主義のために援助をするのがアメリカの役目だ」と宣言した。

この宣言(価値観・戦略)が、冷戦開始の画期となった『トルーマン・ドクトリン』である。

トルーマン・ドクトリンは、『アメリカ国民が、外交問題を道義的な問題として受けとめる体質』を考えて、考案された。

その後ギリシアでは、アメリカの介入によりむしろ内戦は激化し、49年10月のゲリラの敗北までに15.8万人が死亡した。

結局は、ギリシアとトルコへの介入は、国連の無力化を早めた。

アメリカは国連中心主義を早くも捨てて、アメリカによる援助の対象国を拡大させた。

援助対象国のリストアップが始まり、それが『マーシャル・プラン』に繋がる。

(2013年8月25日に作成)

(『早わかり世界近現代史』から抜粋)

第二次世界大戦後に、東欧諸国が「ソ連圏」に組み込まれると、西ヨーロッパにも社会主義が浸透する動きが強まり、アメリカでは「ソ連脅威論」が高まった。

その頃に、アメリカ国務省のソ連問題の専門家だったジョージ・ケナンは、「ソ連には、自らを衰退させる欠陥がある。だから長期的な『封じ込め』を続ければ、穏健化や内部崩壊に導き得る。」と説いた。

これは、『封じ込め戦略』と呼ばれている。

この概念は、トルーマン政権に影響を与えた。

『トルーマン・ドクトリン』は、世界を『自由主義(アメリカ陣営)』と『全体主義(ソ連陣営)』に分けて、「自由主義を守るためには、自由主義体制の国をアメリカが守らなければならない」と述べたものである。

(この考え方には、アメリカの偏見が強く入っていると、
 私は思います。

 物事を単純な二元論で考えるのは、幼稚な証拠です。)

トルーマン大統領は、ギリシアとトルコへの4億ドルの軍事・経済援助を求めて、アメリカ議会はそれを承認した。

これにより、イギリスに代わってアメリカが、東地中海の秩序維持にあたる事になった。

1948年に、ソ連との関係を悪化させたユーゴスラヴィアが国境を閉鎖して、ギリシア共産党への補給ルートを断った。

これにより、ギリシアの内戦は終わった。

(2013年10月9日に追記)


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