第2の原爆は、長崎ではなく小倉に落ちるはずだった

(『そうだったのか!現代史2』から抜粋)

1945年の春に、アメリカは原爆をどの都市に落とすかの検討に入った。

当初に予定されていたのは、小倉、広島、新潟、京都であった。

最初の3つの都市には軍需工場があり、京都は空爆を全くしていないので原爆の威力を評価しやすかった。

そうしたところ、陸軍長官のヘンリー・スティムソンは、京都への投下に反対した。

彼はかつて京都を訪れた事があり、「京都の美しさを知っていたからだ」と言われている。

「日本の古都を破壊すれば、占領後に悪影響が出ると心配したからだ」という説もある。

そして、京都の代わりに、長崎が候補に追加された。

1945年8月9日に、原爆を積んだ爆撃機は、小倉を目標にして出発した。

ところが、小倉上空は雲に覆われていた。

そこで爆撃機は、長崎に向かった。

小倉上空の雲の存在が、小倉市民と長崎市民の運命を決めた。

(2013.12.21.)


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