(『ルーズベルト秘録』産経新聞出版から抜粋
2012年11月19日にノートにとって勉強した)
1943年の1月14日に米英の首脳は、モロッコのカサブランカにおいて会談を始めた。
米国のルーズベルト大統領と、英国のチャーチル首相の会談である。
すでに米軍はミッドウェー海戦で日本軍を破り、北アフリカへの上陸作戦もスタートしていた。
米国政府では、欧州への進軍について、マーシャルら米軍指導部は「ドイツとの正面対決」を主張したが、ルーズベルト大統領は「迂回戦術としての北アフリカ上陸作戦」を主張し、後者が採用されていた。
ルーズベルトは42年11月の米議会の中間選挙に勝つために、早期の上陸作戦を望み、上陸地として北アフリカを選んだという事情があった。
米国は第二次大戦に参戦以来、「まずドイツを叩き、その後に日本を叩く」という、『欧州優先戦略』をとった。
だから戦略物資の8割を、欧州戦線に投入していた。
だが米国の統合戦略委員会は、「戦後のソ連の脅威を阻止するため、ドイツの敗北を遅らせるべきだ。それによってドイツ軍と戦っているソ連を消耗させられる」と提言していた。
すでに英国は、独ソ戦が始まった1941年6月以来、ドイツ軍との交戦を避けていた。
ルーズベルト大統領は、この考え方に同調した可能性が高い。
これに対し、米英軍のフランス上陸を待っていたソ連の指導者スターリンは疑惑を強めた。
そして「すぐに進軍するべきだ」とアメリカ政府に伝えた。
カサブランカ会談の当時、ソ連軍は200万人のドイツ軍と死闘をしており、米英合同軍は北アフリカで30万人のドイツ・イタリア軍と戦っていた。
米軍の欧州上陸作戦はすでに準備されていたが、結局はソ連軍の勝利が確定した後の1944年6月6日に、ノルマンディー作戦として欧州上陸が行われることになる。
ルーズベルトはカサブランカ会談で、戦後のドイツ分割を話し合おうとしていた。
この会談時にルーズベルトは、フランス人のドゴールと初めて会った。
英国はドゴールを拾い上げて支援し、ロンドンを拠点とする亡命組織「自由フランス」のレジスタンス活動を養っていた。
だが米国は、戦後のフランスの指導者にはアンリ・ジロー将軍を据えようと画策していた。
北アフリカ上陸作戦では、カサブランカ会談前の1942年11月8日にフランス植民地軍が米英軍を攻撃し、米軍を指揮していたアイゼンハワー将軍は、フランスのビシー政権との停戦交渉を余儀なくされた。
ビシー政権の要人だったジャン・ダルランは、自分を北アフリカのフランス領全域の 指導者とするのを条件に、停戦に応じた。
これにより、北アフリカのフランス領は保証された。
ダルランは直後の12月24日に暗殺された。
そしてダルランの後継者の地位を、ドゴールとジローの二人が狙って競い合う事になった。
ルーズベルトは、フランスの復権を目指すドゴールではなく、言いなりになるジローを 支持し、ジローが北アフリカ・フランス軍の最高司令官に任命された。
ドゴールを支持していた英国のチャーチル首相は、これに不服だった。
ルーズベルトは、「ドゴールは戦後にフランスの植民地はすべてフランスに返還すべきだと言う。ばかげた事だ。米兵はフランス領の植民地のために死んでいるのではない。」と語っている。
ルーズベルトは米国が参戦する前から、第二次大戦を「民主主義と全体主義の戦い」 と表現していたが、「植民地の争奪が今回の戦争の実相の一つ」とも考えていた。
カサブランカ会談では、最終日の1943年1月24日に、ルーズベルトが「我々は、ドイツ、イタリア、日本に対して、無条件降伏を突きつける」と宣言した。
この『無条件降伏宣言』が、日本とドイツに最後の一兵になるまで戦う決意をさせた。
実はこの宣言は、チャーチルも米軍幹部も予想していないものだった。
チャーチルは怒りで青ざめ、「ドイツ軍の決意を強めるだけだ」と口にした。
チャーチルは後に、「驚いたが、異議を唱えるわけにはいかなかった。両国の協力に 深刻な影響が出るからだ」と述べている。
無条件降伏という発想は、それまでの戦争の常識を覆すものだった。
通常の戦争は、外交交渉と並行して行われるものだからだ。
ルーズベルトは第二次大戦を、イデオロギー戦争のようにとらえていた。
英国とソ連は宣言の撤回を求めたが、ルーズベルトは拒否した。
後になるが、この宣言にのっとって1945年7月のポツダム会談で、トルーマン大統領は日本に無条件降伏を要求した。
日本政府は、天皇制の維持が条件に必要だとして、これを拒んだ。
そこで米国は原爆を投下し、直後に日本政府はポツダム宣言(無条件降伏)を受け入れた。
(2024年11月20日に作成)