対日戦での原爆投下、35万人が死亡
マンハッタン計画

(『アメリカ史を知るための62章』から抜粋)

アメリカのスミソニアン航空宇宙博物館は、1995年に大戦終結の50周年として、『原爆展』を企画した。

そして、原爆による悲惨な被害を示そうとした。

これに対し、米軍の関係者は激しい反対運動をして、原爆投下を礼賛する方向に変えようとした。

共和党も議会で、「公共機関は、愛国主義に反する活動をしてはいけない」と主張した。

結局は、原爆展は中止になった。

アメリカの原爆開発は、1939年にアルバート・アインシュタインが、ローズヴェルト大統領に書簡を出したのが契機となった。

『マンハッタン計画』と名付けられて、極秘で原爆の開発が行われていく。

そして1945年7月に、最初の実験成功にこぎつけた。

原爆の開発当初は、対ドイツ戦を想定していたが、途中で対日戦へと変わり、広島・新潟・小倉などが投下目標に選ばれた。

そして、1945年8月6日には広島に、同9日には長崎に、原爆は投下された。

原爆により20万人以上の死者が出て、後遺症も残した。

投下を決めたハリー・トルーマン大統領は、「原爆の使用で、戦争は早期に終結し、アメリカ兵士の犠牲を減らした」と主張した。

しかし、ソ連の対日参戦が予定されていた事などから、「原爆投下は不要だった」との指摘がある。

そして、「ソ連に新兵器を見せつける事で、戦後のアメリカの優位を確立しようとした」との見方もある。

また、人口の密集する大都市を、無警告で攻撃した点には、批判が向けられている。

開発に従事した科学者からは、「無人島で威力を示せば十分だ」との意見が出ていた。

大都市への投下は、開発の責任者だったグローヴズ将軍が「実戦テスト」と呼ぶなど、新兵器の実験という性格が強くあった。

(2013年7月24日に作成)

(以下は『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)

原爆開発の発端は、1941年6月にローズヴェルト大統領が作った「科学研究開発局」にあり、アインシュタインらが開発を提唱した。

開発拠点は、42年には陸軍省に移されて、『マンハッタン計画』となった。

原爆の開発後は、アメリカは技術の独占を図ったが、ソ連も数年後に原爆開発に成功した。

原爆は飛び抜けた破壊力のため、管理についてが問題となった。

(2013年7月27日に作成)

(以下は『そうだったのか!現代史2』池上彰著から抜粋)

1938年12月に、ドイツの学者が、ウランに核分裂反応を起こさせる実験に成功した。

アメリカに亡命していたユダヤ人の物理学者たちは、「ドイツは原爆を開発するのではないか」と恐れた。

ドイツは、チェコスロバキアにあるウラン鉱山を支配しており、ウランの輸出を禁止していた。

そのため、核兵器の開発を進めているように見えた。

亡命学者たちの代表として、アルバート・アインシュタインは、ローズヴェルト大統領に手紙を送った。

「科学の発展により、原爆の製造が可能になってきた。
この爆弾を爆発させれば、大破壊ができる。

ドイツが開発したら、大変な事になる。アメリカも原爆を開発しなさい。」

しかし実際には、ドイツは核兵器を開発していなかった。

アインシュタインは、原爆が広島と長崎に投下されると、その被害に驚き、以後は平和運動に身を投じる事になる。

1942年8月に、『マンハッタン計画』はスタートした。

原爆の設計と製造の総責任者には、ジュリアス・オッペンハイマーが就いた。

そしてロスアラモス研究所に、極秘に科学者が集められた。

ウランは、ベルギー領のコンゴから輸入された。

原爆製造に関する施設は、37ヵ所にも上った。

投じられた資金は20億ドルで、現在の日本円にすると100兆円にもなる。

こうした巨額の開発の中で、軍とさまざまな産業が協力したが、『軍産複合体』が形成されるきっかけとなった。

『軍産複合体』とは、軍と産業界が癒着し、軍事産業を維持・発展させるために軍備拡張を進めていく体制のことである。

1945年7月16日に、アメリカは世界初の核実験を行った。

人里はなれた砂漠で行われたが、290kmも離れた場所ですら住宅の窓ガラスが割れる被害が出て、大騒ぎになった。

極秘のプロジェクトだったため、軍は「弾薬庫が爆発した」との虚偽の発表をした。

開発プロジェクトの一員だったゲオルグ・キスタコフスキーは、「地球が滅亡するときに人類が目にするのは、こんな光景なのだろうと感じた」と述懐している。

原爆の威力が明らかになると、開発に携わっている科学者からは使用反対の動きが出た。

しかしジェームズ・バーンズ国務長官は、ハリー・トルーマン大統領に対して、「原爆は、大戦終結後の世界において、アメリカを有利な立場に置くでしょう。ソ連に威力を示せば、ソ連を御しやすくできます。」と進言した。

トルーマンも、「戦後の世界は、米ソの対立になる」と予測し、「ソ連よりも強い立場を確立する必要がある」と考えていた。

実際にアメリカは、戦後にソ連がイランに駐留し続けるのを見ると、「軍を撤退させなければ、原爆を落とす」とソ連を脅し、ソ連軍を撤退させている。

1945年8月6日に、広島に原子爆弾が投下された。

広島上空600mで爆発し、爆発の瞬間には数百万度、1秒後には5000度の高熱を生んだ。

直径2km以内の可燃物は、すべてが燃え上がった。

爆心地から500m離れた場所でも、秒速280mの爆風が吹いた。

爆発の直下にいた人々は、一瞬で蒸発したり、大やけどを負った。

被爆者たちは、次々と死んでいった。

即死を免れた人々も、すぐに急性放射能症の症状が出た。

高熱・吐き気・髪が抜ける・下痢・歯ぐきや鼻からの出血・便に血が混じる、といった症状が出た。

そして、苦しみながら死んでいった。

1945年の年末までに、広島では14万人、長崎では7万人が亡くなった。

現在までに、広島で23万人、長崎で12万人が亡くなっている。

広島の惨状は、イギリスの新聞記者ウィルフレッド・バーチェットによって、世界に知らされた。

彼の記事が出ると、アメリカの調査団は「記事はウソだ」との記者会見を行った。

そしてGHQは、原爆に関するあらゆる資料の公表を禁止した。

(2013年12月21日に作成)

(以下は『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

原爆の開発・製造は、アメリカ史上で最も高くついた工学プロジェクトだった。

1945年7月16日に、ニューメキシコ州の高地砂漠にある『ホワイトサンズ性能試験場』で、世界初の原爆が炸裂した。

この時までに、プロジェクトに投じたカネは、現在の金額で280億ドルに膨らんでいた。

原爆開発の秘密保持は徹底されていて、副大統領のトルーマンも知らされておらず、国会議員も誰一人知らなかった。

トルーマンは45年4月12日に(ルーズベルト大統領が病死したので)大統領に昇格したが、初めて原爆について知らされた時の驚きは途方もないものだったろう。

トルーマンは副大統領の時期には「上院の国防調査の特別委員会」の委員長を務めていたが、戦費の使途を管理する責任者だったのに、原爆開発を知らされていなかったのだ。

トルーマンは大統領になると、2人の人物から原爆開発プロジェクト『マンハッタン計画』を知らされた。

マンハッタン計画のトップであるヴァネヴァー・ブッシュと、陸軍長官のヘンリー・スティムソンの2人からだ。

『マンハッタン計画』には、20万人が携わり、80もの関連組織が存在していた。

製造工場は数十にも及び、その中には250平方kmの敷地をもつテネシー州郊外の施設もあった。

この施設は、一晩の消費電力がニューヨーク市全体を上回るほどの巨大施設だった。

にも関わらず、政府高官も議員も計画の存在を知らなかった。

第二次大戦が終結すると、原爆開発を全く知らされていなかった国会議員たちが、原爆の管理者を決めることになった。

その結果、1946年に『原子力法』が制定され、恐るべき秘密保持制度が出来上がった。

原子力法により、新たに『原子力委員会(AEC)』(以前はマンハッタン計画と呼ばれていた)が設置された。

そして、原子力委員会は大統領制とは完全に切り離され、独自に情報の機密区分を行うことになった。

アメリカ史上で初めて、民間人の運営する連邦機関の原子力委員会は、『大統領令とは異なる基準で機密情報の管理をすること』になった。

原子力委員会は、あらゆる情報を機密とし、65種類の異なる大きさと形状をもつ7万発の原爆を製造していった。

その原爆開発・製造では、エリア51とネヴァダ核実験場が中心地となった。

原子力委員会に特有の「部外秘データ」という機密区分には、民間企業の研究も含まれている。

言い換えれば、原子力委員会は研究を民間委託し、その研究をすべて機密にできる。

これはつまり、「知る必要がない」という理由があれば、大統領さえ撥ねつけられるという事だ。

1994年にクリントン大統領は、「放射線被曝実験の諮問委員会」を設置して、原子力委員会の秘密データを調査しようとした。

しかし「知る必要がない」という理由で、大統領にすら開示されなかった。

原子力委員会は、現在の名称は『エネルギー省』となっている。

(2019年1月28日に作成)


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