(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
1938年1月に、フランクリン・ローズヴェルト大統領は「世界の緊張が高まっている」として、海軍力の大幅な拡大を提案した。
これは不況対策の側面もあり、政権の関心の移行を示す転換点だった。
39年に入ると、ローズヴェルトは『中立法』(すべての交戦国への武器輸出を禁じる法)の改正を求めた。
彼は、中立法はアメリカの安全を脅かすと主張した。
同年9月にドイツのポーランド侵攻が始まると、改正の機運が広がり、11月には条件付きで武器の輸出が認められた。
アメリカは、1930年代を通じて経済の回復をできなかった挫折感が大きな影を落とし、そこから「国際秩序の立て直しなくして、繁栄の道はない」という議論が生まれ始めた。
ヘンリー・R・ルースは1941年に、「20世紀はアメリカの世紀である」と論じて、「豊かな生産力を持つアメリカは、国際社会での指導的な役割を忌避すべきではない」と論じた。
この考え方は、新たな潮流を集約していた。
1940年4月~6月に、ドイツは電撃戦で西ヨーロッパ一帯を支配下に入れた。
これにより、イギリスが脅威にさらされる事になり、アメリカを根底から動揺させた。
この直後に、アメリカの軍事予算は大幅に増えて、9月には平時としては史上初で『徴兵法』が可決した。
徴兵法は、10月から実施された。
41年3月には、『武器貸与法』が可決されて、販売だけでなく貸与や無償での譲渡も認められた。
アメリカは、連合国のための兵器工場になった。
援助はソ連にも適用された。
これが、米英ソの大同盟につながる。
1940年の後半から、軍需景気によって大恐慌後の不況をついに脱し、雇用も大幅に拡大した。
その流れに乗り、フランクリン・ローズヴェルトは40年11月に、史上初の三選を果たした。
ローズヴェルトは選挙戦で、「若者を戦場に送らない」と語っていた。
しかし41年1月には、第二次大戦への参戦の準備を始めた。
公約を破ったのである。
41年9月には、ドイツ潜水艦への攻撃を始めて、ドイツとの交戦に入った。
(2013年7月24日に作成)