(『ルーズベルト秘録』産経新聞出版から抜粋
2012年11月12日にノートにとって勉強した)
ルーズベルト大統領は、1945年4月12日に脳出血のため63才で死去した。
彼は1933~45年の12年間も大統領をした。アメリカ大統領では前例のない四選をした。
アメリカ史上最長であり、大恐慌、戦争と続いた危機の時代だからこそだった。
後を継いだのは副大統領をしていたトルーマンで、すぐさま執務室で秘密電文を読みふけった。
主にルーズベルトとスターリン(ソ連の指導者)が交わした電文だった。
ルーズベルトが亡くなると、ヤルタ会談の合意の解釈をめぐって米ソは対立した。
例えばソ連は、「ポーランド新政府が親ソ派だけで構成される事に合意しながら、 米国はそれを破った」と非難している。
ヤルタ会談での合意は、まず国際連合の創設を決めた。
さらにソ連の対日参戦によって対日戦争を終結させる事も盛り込まれた。
ヤルタ会談には密約もあり、それが日本降伏後の中国内戦の激化、朝鮮半島の分割、ソ連による北方領土の占領などの原因となった。
ヤルタ会談は、1945年2月に行われた。
2月3日に、ルーズベルト大統領はヤルタに到着し、翌日にスターリンと43年11月のテヘラン以来で会談を始めた。
英国のチャーチル首相も参加した。
すでに戦勝国となることが確定していたアメリカ、ソ連、英国は、戦後に勢力圏をどう配分するかで思惑を巡らせていた。
ヤルタ会談は、その最終調整が目的だった。
英国のチャーチル首相は、「フランスを戦勝国に格上げする事で、ソ連に対抗しよう」と、アメリカに強く働きかけていた。
実は、欧州の勢力圏の配分については、すでに1944年10月9日にモスクワで、スターリンとチャーチルは話し合っていた。(これをモスクワ密議という)
この時にチャーチルは、「ルーマニアはソ連が90%、ギリシャは英国が90%、ユーゴスラビアとハンガリーは双方50%ずつ」と提案した。
これに対しスターリンは、ルーマニアをもらう替わりに地中海を英国の勢力圏と認める事、イタリア共産党の活動を抑制する事を約束した。
ヤルタ会談では、「欧州の戦後問題」「国際連合の創設」「ソ連の対日参戦」が主な議題だった。
ルーズベルトはこの会談で決めた「東欧州の解放宣言」に、自由選挙という言葉を盛り込んだ。
だがそれは言葉だけであり、ルーズベルトは東欧をソ連が支配する事を容認していた。
ルーズベルトの死後、後任のトルーマンが解放宣言を文字通りに解釈したため、 ソ連との間に解釈の問題が生じた。
ヤルタ会談中の2月8日にルーズベルトは、スターリンに「南樺太と千島列島をソ連領として認める」というメモを渡した。
(※千島列島は1875年の樺太千島交換条約で日本領となっていた。
また日露戦争の結果、1905年に南樺太は日本領となっていた。)
1943年2月にソ連軍がスターリングラードでドイツ軍に大勝して以来、ルーズベルトの関心はアジアへ移りつつあった。
太平洋では、米軍は日本軍から反撃を受けていた。
日本の降伏を早めるために、ルーズベルトはソ連の対日参戦を求めていた。
2月11日に、アメリカ、ソ連、英国の三首脳は、密約を含めたヤルタ協定に署名した。
ルーズベルトは、すでに1944年10月14日にスターリンに対日参戦を持ちかけて、「いつ頃に攻撃ができるか、見返りに何を必要とするのか」と訊いていた。
この時スターリンは翌日に、三ヶ月分の武器・弾薬を満州周辺に用意する事と、南樺太と千島列島の獲得、大連港と旅順港の租借、南満州鉄道の管理権を要求した。
スターリンが求めたのは、日露戦争前の帝政ロシア時代の勢力圏の復活だった。
武器の提供は、「マイルポスト合意」として成立し、アメリカはウラジオストックに80万トンの武器を届けた。
日本領の割譲もルーズベルトは認めて、大連の権益も認め、南満州鉄道は中国とソ連の共同管理を認めた。(この合意は中国政府には知らせず、密約とした)
ルーズベルトは、「ソ連が対日参戦してくれるなら、千島列島など取るに足りないつまらない事だ」と発言した。
この米ソの密約では、中国国民党(蒋介石政権)をソ連が支持する事も約束された。
日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で南樺太と千島列島を放棄したが、「北方領土は千島列島に含まれていない(日本領だ)」と主張し続けている。
(2024年11月18日に作成)