トルーマン政権 対ソ強硬派を起用する
赤狩りと忠誠審査令

(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)

ハリー・トルーマンは、フランクリン・ローズヴェルト大統領の病死により大統領に昇格すると、ローズヴェルト政権からほとんどそのまま閣僚を継承した。

そこでは、ニューディール派と第二次大戦中に入閣した保守派が対立していた。

ニューディール派を代表するヘンリー・ウォレス商務長官は、1946年8月に米ソの共存を訴える演説をしたが、9月にトルーマン大統領に解任された。

これにより、トルーマン政権は対ソ強硬派で統一された。

1946年の中間選挙で、共和党が上・下院を占領すると、『赤狩り(共産主義者の追放)』が生まれた。

元来、アメリカでは共産主義は「無神論の原理に基づく」として、反発される傾向にあった。

第二次大戦中に、それまでは峻別していたファシズムと共産主義を、「全体主義」として同一視する風潮が生まれた。

「第二次大戦は、ファシズムの侵略への許容から始まった」という見方もあり(この見方は、ミュンヘン(会議)・シンドロームと呼ばれた)、アメリカは非妥協的になっていた。

1947年3月21日(トルーマン・ドクトリン発表の9日後)に、トルーマン大統領は連邦職員の忠誠審査を命じた。

共産主義的な団体への加入や、そういう団体との交流を調査して、事実が認められたら解雇し、雇用も禁止にしたのである。

これは、憲法で保障されている「思想の自由」に抵触するものだった。

1953年に改定されるまでに、475万人が対象となり、560人が解雇、6828人が辞職した。

この審査は、体制順応的な雰囲気を蔓延させた。

(2013.9.30.作成)


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