(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
ハリー・トルーマン大統領の対ソ強硬路線は、リベラル勢力を分裂させた。
ヘンリー・ウォレスらは、民主党を出て『進歩党』を結成した。
そしてウォレスは、大統領選挙に出馬した。
民主党は、「トルーマンでは勝てない」と考えて、アイゼンハワーを担ごうとした。
しかし本人の固辞にあい、トルーマンで再選を狙うことになった。
ハリー・トルーマンは、1948年の大統領選挙において、「国民健康保険制度」「公正雇用の委員会」を公約にした。
彼は、予想外に大勝した。
ヘンリー・ウォレスは、同年に起きたチェコ政変やソ連によるベルリン封鎖で生まれた反ソ・ムードのために、惨敗した。
上下両院で再び民主党が多数となり、ニューディール改革の継続を求める世論の強さを示した。
トルーマンは当選後、「どの階層も公正な扱い(フェア・ディール)を受ける権利がある」と述べた。
この後、トルーマンの示した『国内では改革、国外では対ソ強硬で介入主義』という方針が、民主党の主流となった。
(2013.9.30作成)
(『アメリカ黒人の歴史』上杉忍著から抜粋)
ハリー・トルーマン大統領は、1947年3月に『トルーマン・ドクトリン』を発表して、反ファシズムから反共産主義へと転換した。
そしてアメリカ社会に、赤狩り旋風が吹き荒れた。
そんな中で行われた1948年の大統領選挙では、「大都市の黒人票」が注目されて、アメリカ史上で初めて具体的な対策が打ち出された。
北部の都市における黒人の人口は、1940~48年の間に200万人も増え、黒人票が結果を左右するようになっていた。
この選挙では、米ソの協調を唱えるヘンリー・ウォレスが、明確に「人種隔離の撤廃」を掲げて、民主党を抜けて『進歩党』を結成して立候補した。
すでにトルーマンは1946年12月に、『大統領の公民権の委員会』を設置して、人種差別の改善について提言を求めていた。
この背景には、「アメリカが自由と民主主義を掲げて世界戦略を展開していくには、国内の人種差別を解決する必要がある」との問題意識があった。
まもなく同委員会は、「反リンチ法」「投票税の禁止」「選挙権の保護」「軍隊内での人種隔離の撤廃」「人種隔離をしている公的機関への補助金の停止」「公正な雇用のための委員会の設置」などを勧告した。
トルーマンが勧告を無視すれば黒人票はウォレスに流れ、勧告を支持すれば南部の白人が反発することになる。
選択を迫られたトルーマンは、1948年2月に勧告の支持を発表した。
これに抗議した南部の民主党議員は、『州権党』を結成して、ストロム・サーモンドを立候補させた。
こうして民主党は3つに分裂し、トルーマン、ウォレス、サーモンドに分かれて、共和党候補のトマス・デューイに立ち向かう事になった。
トルーマンは黒人票を手にするために、48年7月26日に、「政府の雇用における人種差別の撤廃」「軍での平等な処置」を求める行政命令を出した。
さらに投票日の直前には、大統領として初めてハーレム(黒人居住区のこと)に入って演説をした。
その結果、黒人票の大部分がトルーマンに入り、予想を覆して当選した。
この選挙の後、黒人運動家では「反ソ派」と「米ソ協調派」の対立が決定的となる。
(2014.5.11.作成)