ドイツの分割
ソ連と対立して、ドイツを分断させてしまう

(『早わかり世界近現代史』から抜粋)

1945年5月にドイツが無条件降伏をすると、ドイツは東西2つに分割されてしまった。

東部ドイツをソ連が占領し、西部ドイツをアメリカ・イギリス・フランスの3国が占領したのである。

さらに首都ベルリンは、4地区に分割した上で、4国の共同占領にした。

ドイツの占領は、4国の理事会が行うとされたが、ソ連と他の3国の対立により、東西での分裂が生じていった。

西ドイツでは、3国の占領地が統合されて、新しい通貨として「新ドイツ・マルク」が発行された。

これに反発したソ連は、1948年6月に、新ドイツ・マルクが東ドイツに流入するのを防ぐためにベルリンへの交通路を遮断し、ベルリン西側地区への物資の供給をストップした。

これが、『ベルリン封鎖』である。

この封鎖のために、西ベルリンは「陸の孤島」となり、アメリカは空前の「物資の空輸作戦」を行った。

90秒ごとに輸送機が飛び、1日に1.3万トンもの物資が運ばれた。

1949年5月に、ソ連軍は封鎖を解除した。

同月に、『ドイツ連邦共和国(西ドイツ)』がつくられた。

9月には、『ドイツ民主共和国(東ドイツ)』もつくられた。

ここにおいて、ドイツの分裂は確定した。

ただし両国ともに、国家の暫定性と将来の統一の可能性を、明言していた。

1954年に「パリ協定」が成立すると、西ドイツは『NATO』に加盟して、再軍備を始めた。

それに対抗して、東ドイツは『ワルシャワ条約機構』に55年に加わった。

これにより、ドイツの分裂は決定的になった。

1958年にソ連の首相フルシチョフは、西側3国のベルリン退去と西ベルリンの非武装・自由化を求めた。

しかし、3国は拒否した。

この頃から、東ドイツの民衆が、西ベルリン経由で西ドイツに亡命し始めた。

1961年8月には、1日に1500人が亡命するまでになった。

そこで東ドイツは、61年8月13日から、東西境界線に沿って45kmの『ベルリンの壁(コンクリートの壁)』を築いた。

(2013.10.10.作成)


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