第二次大戦用の諜報・工作機関だったOSSは、戦後も存続して中央情報グループに改組され、秘密工作を始める

(『CIA秘録』ティム・ワイナー著から抜粋)

フランクリン・ローズヴェルト大統領は、第二次大戦用の諜報・工作機関として、ウィリアム・ドノバン将軍の下でOSS(戦略事務局)を、1942年に創設した。

1944年11月18日付で、ドノバンはローズヴェルト大統領あてに「アメリカは、平時の中央情報局を設置すべきだ」と提案した。

OSSを率いているドノバンは前年から、ウォルター・ベデル・スミス中将の進言を受けて、構想を描き始めていた。

OSSの要員は1.3万人を超えた事はなかったが、ドノバンの構想では新組織は、『独自の兵力を有して共産主義と戦いつつ、ホワイトハウスに秘密情報を届ける』というものだった。

あらゆる職業から犯罪者まで、手当たりしだいに人をかき集めてスパイ組織を作ろうというドノバンの構想に、軍の幹部たちは仰天した。

ドノバンと、そのお気に入りの部下であるアレン・ダレスは、大戦中に諜報や破壊活動に夢中になっていた。

ドノバンは、OSSの秘密工作の訓練を、イギリスの諜報機関に頼った。

第二次大戦の末期になると、OSSの活動はヨーロッパ・北アフリカ・アジアまで及んでいた。

ドイツにも工作員が送り込まれたが、2人1組で21組が入ったが、その後に消息があったのは1組だけだった。

ドノバンの右腕だったデービッド・ブルースは云う。

「ドノバンの想像力には限りがなかった。

ばかげている計画でも断ったりは出来なかった。

西部の洞窟に棲むこうもりを集めて、その背中に焼夷弾をくくり付けて空から落とし東京を破壊する、という可能性をテストした事すらある。」

ローズヴェルト大統領は、いつもドノバンに対しては疑念を抱いていた。

1945年初めに、大統領はOSSを秘密裏に調査するように命じ、「ドノバンはアメリカ版のゲシュタポを作ろうとしている」と伝えられると、ドノバンが新組織を作ろうとするのを止めた。

OSSに対するペンタゴンの評価は低く、軍が傍受した通信をOSSが目にする事はほとんど許されなかった。

OSSは大統領直属で文民が中心のため、軍からは危険視されていた。

真珠湾攻撃の以前のアメリカでは、海外情報を集めるのは大使と駐在武官たちだけだった。

1945年春になっても、アメリカはソ連についてはほとんど何も知らなかった。

副大統領のトルーマンは1945年4月12日に、ローズヴェルト大統領の死去により突然に大統領に昇格した。

「自分が大統領職を引き継いだ時、世界中から集まる情報を整理する機関を大統領は持っていなかった」と、トルーマンは後年に書いている。

OSSを基にしてCIA(中央情報局)は創設されるが、トルーマンはCIAをニュース通信社にするつもりだったと云う。

「スパイの集団にするつもりはなかった。世界中の情報を大統領に報告するための、単なる情報センターにしておくつもりだった。」と、トルーマンは後に書いている。

ローズヴェルトが死去すると、パーク大佐はOSSについての極秘報告を、トルーマン新大統領に提出した。

この報告書は軍部が作り、フーバーFBI長官が磨きをかけたもので、OSSを殺すためのものだった。

この報告は、「OSSは、アメリカの国益に深刻な害をもたらした」と述べていた。

「1944年6月にローマが陥落した後、OSSの間違った諜報のために、数千人のフランス軍部隊がエルバ島のナチスの罠にはめられ、1100人が殺害された」と報告している。

「間違って中立国のスウェーデンに工作部隊を送り込んだ」「武器貯蔵庫を守るために警備要員を送りながら、誤って要員もろともその貯蔵庫を爆破してしまった」とも報告している。

ドノバンは「クレムリンに工作を仕掛けることで共産主義を阻止しよう」と提案したが、トルーマンは却下した。

トルーマンは、45年9月20日にドノバンを解任し、「OSSを10日以内に解散させる」と命じた。

6日後の9月26日に、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが辞任した。

彼は、CIA構想に強力に反対していた。

スティムソン辞任をチャンスと見たドノバン配下のジョン・マグルーダー准将は、ジョン・マクロイ陸軍次官を説得して、OSSを存続させる命令書をもらった。

この命令書により、スパイたちはSSU(戦略事務部隊)という名で活動を続行することになった。

ジョン・マクロイは、ロバート・ロベット空軍次官に、アメリカの諜報についての秘密委員会を立ち上げるように要請した。

この委員会は、トルーマン大統領に諜報組織の必要性を訴えることが目的だった。

ワシントンでは、陸軍と海軍はそれぞれ自分たちの諜報組織を欲しがっており、フーバーFBI長官は自らの手で世界中のスパイ活動をやりたがっていた。

OSSは解散になったので、ほとんどの職員は元の生活に戻っていった。

職員数は3ヶ月で1万人も減り、1967人にまで落ち込んだ。

アレン・ダレスは、兄のジョン・フォスター・ダレスの経営する法律事務所「サリバン・アンド・クロムウェル」に戻った。

フランク・ウィズナーも、自分の法律事務所「カーター・レッドヤード」に戻った。

トルーマンは、大戦中の機構を解体する仕事を、ハロルド・スミス予算長官に任せていた。

スミスはOSSの解散に反対し、トルーマンの軍事担当の首席補佐官であるウィリアム・レイヒー提督も同調した。

トルーマンは考えを変え、新しい諜報機関を設置することにした。

そしてシドニー・スーアズ少将を、その機関の初代長官に任命した。

トルーマンはスーアズに「秘密スパイ組織の親玉にする」と言い、組織名は『中央情報グループ』と名付けられた。

だが、スーアズには何の指令もなかった。

そもそも、大統領は何をしたいのか分かっていなかった。

トルーマンは、毎日届けられる情報を要約して渡してくれる事を求めていただけだった。

しかしマグルーダー准将は、「ホワイトハウスは、秘密工作に暗黙の了解をしている」と主張した。

スーアズは、ソ連の情報を集めようとした。

当時のアメリカでは、クレムリンの情報は、モスクワ駐在大使のベデル・スミス将軍と、ロシア通のジョージ・ケナンしか入手していなかった。

ベデル・スミスは、後にCIA長官になる。

ベデル・スミスは、一兵卒から将軍にまでなった叩き上げの人物で、第二次大戦中はアイゼンハワー指揮下の参謀長をした。

大戦中には、ロシア人将校と共に、ナチスに対する共同作戦の計画を練ったこともある。

彼は1946年3月に、モスクワ大使館の代理大使を務めていたジョージ・ケナンの教えを請うために、モスクワに行った。

ケナンは長期にわたってロシアで過ごしており、「ソ連は征服したものを力で守ろうとするだろう」と警告していた。

ケナンは、アメリカ外交史でよく知られている電報(長文電報と呼ばれている)を発信し、「ソ連人は、力の論理にきわめて敏感である」と伝えた。

ケナンはたちまちのうちに、『クレムリンの専門家』と評されるようになった。

ベデル・スミスは46年4月に、クレムリンに乗り込みスターリンと会談した。

そしてスターリンに、「ソ連は何を求めているか」と聞いた。

スターリンは、「他国支配の野望はない」と告げた。

そして、「鉄のカーテンがヨーロッパに降ろされた」と主張したチャーチルの演説を、非難した。

ベデル・スミスが「ロシアはどこまで出て行くつもりか」と尋ねると、スターリンは「あまり先まで出て行くつもりはない」と答えた。

一方、『中央情報グループ』は発足したが、議会の同意を得ていないので、予算が下りなかった。

スーアズの後を継いで長官になったホイト・バンデンバーグ将軍は、『特別工作室』を新設し、数人の議員を説いて1500万ドルのカネを密かに捻出させた。

そしてリチャード・ヘルムズに対して、東欧・中欧に駐留するソ連軍の情報を集めるように命じた。

ヘルムズは情報を集めたが、偽情報ばかりだった。

彼は後に、「ソ連と東欧に関する情報の半分以上は、間違いだった」と認めている。

ヘルムズの事務所は、偽情報の製造工場となり、事実と作り話を区別できる職員はいなかった。

バンデンバーグは、届けられる恐ろしい報告に(ソ連が攻撃をもうすぐ仕掛けてくるという報告に)驚く日々となった。

(ほとんどが偽情報だったが、それが分からなかった)

恐れを抱いた統合参謀本部は、バンデンバーグに対して、冷戦最初の秘密作戦を準備するように命じた。

この命令を遂行するために、1946年7月17日にバンデンバーグは、トルーマンに「中央情報グループの理念を変えて、作戦行動のとれる機関にしたい」と伝えた。

そして、法律的な拠り所なしに、それは許可された。

同日にバンデンバーグは、パターソン陸軍長官とバーンズ国務長官に対して、「全世界の諜報工作員を支援するために、1000万ドルの秘密資金を追加支出してくれ」と電話した。

両長官はこれを受け入れた。

(2015年1月18日に作成)


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