国家安全保障法が1947年7月に成立し、
NSCやCIAが誕生する

(『CIA秘録』ティム・ワイナー著から抜粋)

中央情報グループ(CIAの前身)のホイト・バンデンバーグ長官は、退任する直前に、こう警告を発した。

「海はすっかり狭くなってしまった。

今やヨーロッパもアジアも、アメリカに国境を接している。」

この言い回しは、9.11事件の後にブッシュ大統領がくり返した警告と、そっくりである。

バンデンバーグは、「アメリカがスパイの専門集団を育成するには、少なくとも5年を要するであろう」とも述べた。

この言葉は、半世紀後の1997年にテネットCIA長官が、同じ言葉で繰り返すことになった。

テネットは、2004年に辞任する際にも、同じ事を口にした。

1947年5月1日に、ホイト・バンデンバーグの後任として、ロスコー・ヒレンケッター海軍少将が『中央情報グループ』の長官になった。

同年6月27日に、議会委員会が秘密の聴聞会を開き、それがCIAの正式発足に繋がった。

聴聞会で講師となったのは、民間で弁護士をしていたアレン・ダレスだった。

アレン・ダレスはかつて、OSSでスイス支局長を務め、「スパイの親玉」という名声を得ていた。

そのため、将来のCIA長官と見られていた。

ダレスは、嘘つきで、不倫の常習犯で、大統領を欺くことさえ憚らなかった。

彼のオフィスには、武装警備員が配置され、室内に入る者は秘密保持を誓約しなければならなかった。

彼の目的は、戦時中のOSSの秘密活動を復活させる事だった。

ハリー・トルーマン大統領は、1947年7月26日に、『国家安全保障法』に署名した。

この法律により、空軍が別個の組織として認められ、NSC(国家安全保障会議)が新たに設置された。

また、国防長官が新設され、ジェームズ・フォレスタルが初代長官になった。

さらに、CIA(中央情報局)の設置も決まり、9月18日に発足した。

CIAは、当初は権限がはっきりせず、綱領が制定されて議会による予算配分が成される2年後までは、細々と生き延びた。

国家安全保障法は、海外での秘密工作を認めていない。

だが、やがて何百という秘密工作が(CIAの手で)行われていく事になってしまう。

そのうち81件は、トルーマン大統領の2期目に行われた。

CIA長官となったロスコー・ヒレンケッターは、海外任務を情報収集に限定しようとしたが、失敗に終わった。

フォレスタル国防長官の自宅の朝食会で、重要な決定がしばしば秘密のうちに下された。

(CIAの歴史を学ぶと分かるが、CIAの上位に国防総省がいる)

1947年9月27日に、ジョージ・ケナンはフォレスタルに文書を送り、「ゲリラ戦の部隊の創設」を提案した。

フォレスタルは熱烈に賛同し、この2人によって、議会など法的な手続きを経ずに活動する秘密組織がCIA内部に創られた。

(この組織が、秘密工作を担当していく)

(2015年1月20日に作成)


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