(『CIA秘録』ティム・ワイナー著から抜粋)
1948年6月28日に、NSCは秘密指令書を出し、「全世界でソ連に対する秘密工作をするように」と命じた。
ジョージ・ケナンは、CIAの内部に『政策調整室(OPC)』を設けて、秘密工作の実働部隊にした。
OPCの室長は、国防長官と国務長官に報告することになった。
1948年6月23日には、西側諸国は新通貨を発行した。
ソ連はこれに対抗して、ベルリン封鎖で応えた。
CIAのベルリン本部は、過去1年以上、ソ連軍の情報収集に努めていたが、不首尾に終わっていた。
CIAの分析官は、「ベルリン封鎖をしても、ソ連には戦争をする気はない」と分析していた。
だがCIAのフランク・ウィズナーは、「米軍はベルリンに乗り込むべきだ」と主張した。
ジョージ・ケナンは、「秘密作戦は、委員会体制ではいけない。ボスは1人でなければならない。」と主張した。
これが受け入れられ、好戦的なフランク・ウィズナーが1948年9月1日に、秘密工作の責任者に任命された。
彼の任務は、ソ連をかつてのロシア国境まで押し戻すことだった。
ウィズナーの組織(OPC)は、すぐにCIAで最大の部門となり、20年以上にわたってその地位を守ることになる。
フランク・ウィズナーは、宣伝のための多国籍メディア複合企業の創設に乗り出し、偽札つくりと市場操作でソ連に経済戦争を仕掛けようとした。
さらに、東側からの亡命者を集めて武装グループを組織し、東側に送り込もうとした。
カーチス・ルメイ将軍の率いるアメリカ空軍は、「ソ連の戦闘機を盗め。できればパイロットも同時に盗め。工作員をベルリンとウラル山脈の間にある全ての飛行場にもぐり込ませろ。」と、CIAに命じた。
ウィズナーはこれらの作戦を行うために、アメリカ人のスパイを数千人も必要とした。
弁護士、銀行家、大学生、退役軍人など、次々と雇い入れた。
そして、3年間で外国に47支局を開設した。
CIAは支局のほとんどに、2人の支局長を置いた。
1人は秘密工作担当、もう1人は諜報担当だった。
ウィズナーは、国防総省や各地の基地から、飛行機・武器・軍服などを徴発した。
OPCの初期の職員だったジェームズ・マカーガーは、こう語る。
「ウィズナーは、どの政府機関に対しても、電話1本で必要な人材や支援を要請できた。
OPCは、機関の存在自体が秘密にされていて、核兵器に次ぐ最高機密だった。」
ジェームズ・マカーガーは、ハンガリーの政治指導者たちをブダペストから避難させて、ウィーンのCIAアジトへと運んだ。
ウィズナーは、1948年10月にマカーガーを、ギリシャ・トルコ・アルバニア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ユーゴスラビアの7ヵ国の責任者に任命した。
フランク・ウィズナーの任務の1つは、20年にわたって大きな影響力を持つにいたる「文化自由会議」にカネを提供する事だった。
ウィズナーは、知識層を目標にした、言論の戦争も行ったのだ。
CIAのトム・ブレイデンは云う。
「文化自由会議の1年間の予算は、80~90万ドルだった。
この予算から、高級月刊誌『エンカウンター』の創刊費を出した。」
ウィズナー、ジョージ・ケナン、アレン・ダレスは、ラジオを使った宣伝工作も考えた。
ダレスは、CIAが作った隠れ蓑の組織の1つである「自由ヨーロッパのための全国委員会」の創設者になった。
(2015年1月21日に作成)