(『CIA秘録』ティム・ワイナー著から抜粋)
アレン・ダレスは、1948年の大統領選で共和党が勝てば、CIA長官に任命されるはずだった。
だが民主党のハリー・トルーマンが再選され、ダレスは共和党との繋がりが余りに強いため指名されず、ロスコー・ヒレンケッターがCIA長官に留任した。
一方、ジェームズ・フォレスタル国防長官とジョージ・ケナンは、CIAの秘密作戦を指揮していたが、CIAを統制できなかった。
ケナンは次第に、隠れ場所に引きこもるようになった。
フォレスタルは、1949年3月28日に国防長官を辞任し、精神病で入院した。
フォレスタルは、その後に自殺した。
彼は死ぬ直前にギリシャの詩を書写しており、ナイチンゲールという語の半ばで筆は止まっていた。
「ナイチンゲール」は、彼がウクライナの地下組織に命じた秘密作戦の暗号名だった。
その地下組織には、ナチスに協力して数千人の住民を殺した者も含まれていて、鉄のカーテンの向こう側にパラシュートで降下することになっていた。
第二次大戦中にアメリカは、ファシストと戦うために共産主義者と協力した。
その後に冷戦が始まると、今度は共産主義と戦うためにファシストを利用した。
ドイツのアメリカ軍占領地では、東側から来た難民がたくさん居た。
CIAで秘密工作を担当するフランク・ウィズナーは、「ソ連圏からの難民を利用するべきだ」と主張し、難民に武器やカネを渡そうとした。
ウィズナーの作戦により、数千人の外国人工作員が死亡した。
この作戦の全貌は、2005年に公開されたCIA文書で明らかになった。
CIAの秘密作戦は、議会の承認を得ていなかった。
1949年2月初めに、ロスコー・ヒレンケッターCIA長官は、カール・ビンソン下院軍事委員長を訪ねて、「議会でCIAを承認して、予算もつけてほしい」と頼んだ。
ヒレンケッターは、『1949年CIA法』を提出し、議員らは秘密の会合でこれを検討した。
デューイ・ショート議員は、「この法案を公開で討議するのは愚行であり、議論しないでおこう」と言った。
『1949年CIA法』は、1949年5月27日に強引に議会を通過した。
これにより、議会はCIAに広範囲な権限を付与することになった。
この後、25年後に議会が監視に目覚めるまで、CIAはほとんど何でもできた。
CIAの予算は、国防総省の予算の中から、巧妙に隠されて確保される事になった。
この法律では、CIAが年間100人まで、外国人を国家安全保障の名目の下にアメリカに入国させる事を認めた。
移民法などで入国を認められない者でも永住を認める、特別なものだった。
さっそく、ウクライナ人のミコラ・レベッドが、アメリカに密入国した。
レベッドは、テロ組織の親分で、1936年にはポーランド内相を殺害したかどで投獄されていた。
3年後にドイツがポーランドを攻撃した後は、ナチスに協力していた。
司法省はレベッドを戦争犯罪人と見なしていたが、アレン・ダレスが「当CIAの最重要作戦を支援している」と連絡すると、ぴたりと沙汰やみとなった。
1949年までにアメリカは、スターリンに反対する者ならば、いかがわしい人間とも組むようになっていた。
ラインハルト・ゲーレン将軍も、そうした人物だった。
ラインハルト・ゲーレンは、ヒトラーの下でソ連に対する諜報活動をしていた人である。
アメリカ陸軍は、ドイツの降伏後に「ゲーレンは使える」と見込んだ。
ゲーレンと部下の6人は、ベデル・スミス将軍の専用機でワシントンに運ばれ、秘密施設で10ヶ月にわたって情報を提供させられた。
その後はドイツに送り返されて、対ソ作戦で働くことになった。
陸軍はゲーレンをCIAに譲ろうとしたが、CIAは元ナチスの人間を信用せず受け入れたがらなかった。
だが、49年7月に仕方なくゲーレン・グループを引き継いだ。
CIAが心配したとおり、ゲーレン・グループにはソ連側のスパイがもぐり込んでいた。
(2015年1月24日に作成)