(『世界歴史大系 アメリカ史2』から抜粋)
アメリカ政府は第二次大戦が始まると、1939年9月には「戦後構想の立案」に入った。
42年12月には、『戦後の外交政策の諮問委員会』が発足した。
経済については、「IMF(国際通貨基金)」の作成が始まった。
1944年7月1日から、「ブレトンウッズ会議」が開かれて、アメリカの提案を基本として『IMF』と『IBRD(世界銀行)』の設立が決まった。
これを、『ブレトンウッズ協定』と呼ぶ。
この協定の成立は、戦後のアメリカの優位を象徴する出来事だった。
さらに1947年10月には、自由貿易を掲げた『GATT』が締結された。
これらの締結によって、『ブレトンウッズ体制』と呼ばれる「通商の自由化体制」が確立された。
アメリカでは、貿易の自由化は伝統的に、民主党は賛成、共和党は反対、という図式であった。
しかし第二次大戦中からは、共和党でも賛成が多数となっていた。
この変化には、軍需による技術革新によって生まれた、アメリカ製品の品質の優位性が影響していた。
また、「大恐慌の再来を防ぐためには、輸出拡大が必要だ」との信念もあった。
さらに、「経済のブロック化が、対立を生み世界大戦の原因になった」との考えもあった。
ソ連は、「IMFの政策は、計画経済と対立する」として、IMFへの参加を拒否した。
その結果、ブレトンウッズ体制は資本主義世界(西側世界)だけでスタートした。
イギリスも、ブレトンウッズへの参加に迷いを見せた。
そのためアメリカは、イギリスへの200億ドルの武器貸与額の帳消しと、37.5億ドルの借款供与をして、ようやく参加をさせた。
(200億ドルもの武器支援をしていた事、それを帳消しにしてしまった事。両方にびっくりしてしまう)
(2013.7.29.作成)
(『早わかり世界近現代史』から抜粋)
1929年に世界的な恐慌がアメリカから始まると、各国は国際的な金本位制度を崩壊させて、自国の通貨を安くして輸出条件を有利にしようとした。
つまり、他国の犠牲による経済の立て直しをはかった。
さらに列強国たちは、「ポンド・ブロック」「ドル・ブロック」「円・ブロック」などの独自の経済ブロックを作り、保護貿易を推進した。
これにより、世界経済が縮小して、第2次世界大戦が起きる大きな要因になった。
こうした事への反省から、戦後には『各国が協調して、国際金融制度を創ること』が目指されたのである。
1944年7月に、ニューヨーク郊外のブレトンウッズで、連合国44ヵ国の代表から成る国際会議が開かれた。
会議では、新しい世界通貨を創ろうとするイギリスと、ドルを世界通貨にしようとするアメリカが争った。
結局は、ドルを世界通貨とする事でまとまった。
この会議で、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)の創設が決定した。
ちなみに、両機関の総裁は代々アメリカ人がしており、理事の多くもアメリカ人である。
ドルは、金1オンスに対し35ドルで、交換を保証する事にした。
各国は、対ドルの為替レートを固定設定して、為替相場の変動を抑えるように市場介入する事になった。
日本の場合、1ドル=360円で固定相場となった。
アメリカのドルが世界通貨になった背景には、世界のゴールドの8割がアメリカに集中しているという、圧倒的な経済力があった。
アメリカは、1948年に国際貿易機構(ITO)を結成しようとしたが、多くの国が同意しなかった。
そのため、暫定的な措置として、GATTが23カ国の参加で結成された。
GATTは、「最恵国の待遇」「内国民の待遇」を原則に据え、貿易の数量制限の撤廃と関税率の引き下げを目指すものである。
GATTは、1995年にはWTOに衣替えをして、国連の一機関となった。
IMF、IBRD、GATT、ゴールドとドルの兌換制をまとめて、『ブレトンウッズ体制』と言う。
この体制は、アメリカの経済力に大きく依存する体制であった。
1971年にドル・ショック(ニクソン・ショック)で、ゴールドとドルの交換が停止されると、ブレトンウッズ体制は崩壊した。
(2014.5.11.)